2015/02/23

真田 信綱 (sanada nobutsuna)

誕生1537年(天文6年)死没1575年6月29日(天正3年5月21日)

戒名 信綱寺殿天室道也大禅定門 信綱寺殿大室道也大居士
 
墓所 長野県上田市真田町信綱寺 設楽ヶ原

父母 父、真田幸隆 母、河原隆正の妹・恭雲院 

兄弟 信綱、昌輝昌幸、信尹、金井高勝

正室:高梨政頼の娘・(於北様)(井上次郎座衛門の娘とも)

子 信興、信光、娘(真田信幸正室のちに側室)

武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。

幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

生涯

天文6年(1537年)生まれである事は『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた。

永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、真田幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である真田信綱が事実上支配していたと思われる。

戦場では専ら父・幸隆弟、真田昌輝らと共に行動しており、真田幸隆と共に信濃国や上野国を転戦した。

永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。

元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

天正2年(1574年)5月に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継いだ。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟、真田昌輝と共に戦死した。享年39。