誕生1537年(天文6年)死没1575年6月29日(天正3年5月21日)
戒名 信綱寺殿天室道也大禅定門 信綱寺殿大室道也大居士
墓所 長野県上田市真田町の信綱寺 設楽ヶ原
父母 父、真田幸隆 母、河原隆正の妹・恭雲院
武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。
幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。
生涯
永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、真田幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である真田信綱が事実上支配していたと思われる。
永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。
元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟、真田昌輝と共に戦死した。享年39。