2015/02/23

真田 信正(sanada nobumasa)

誕生 1571年(元亀2年) 死没 1632年(寛永9年)

改名 幸明

主君 徳川家康、松平忠輝、松平忠昌

父母 父、真田昌輝 母、相木昌朝の娘

生涯

真田幸隆次男、真田昌輝の嫡子で、真田信綱真田昌幸の甥にあたる。

真田信正は父、真田昌輝が長篠の戦いで戦死した時は2歳であった。

その後、真田昌幸のもとで養育されました。

1611年(慶長16年)には越後の高田城城主である松平忠輝に700石で仕えました。

しかし、1616年(元和2年)に松平忠輝は改易され、1618年(元和4年)から高田城に移封された松平忠昌に仕えました。

松平忠昌が越前国北ノ庄藩(のちの福井藩)へ移封され時には一緒に福井へ移りました。

本多忠国にも仕えたという説もあります。

真田昌輝の家系は越前真田氏として現代にまで続いています。

真田 昌輝(sanada masateru)

誕生 天文11年(1543年)6月 死没 天正3年5月21日(1575年6月29日)

別名 徳次郎 信輝

戒名 嶺梅院殿風山良薫大禅定門

墓 信綱寺 住所 長野県上田市真田町長8100

供養碑 愛知県新城市の設楽ヶ原古戦場

兄弟 信綱、昌輝、昌幸信尹、金井高勝、清鏡

妻 正室:相木昌朝の娘


甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将。父は真田幸隆で次男。同母兄に信綱、同母弟に昌幸信尹らがいる。幼名を徳次郎。兵部丞、兵部少輔。

武田二十四将にも数えられる。長篠合戦で奮戦するも戦死した。


天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれた。

小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。

信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。

現在の本で、弟の真田昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」と称せられたのは、兄である真田昌輝の方である。



武田信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄、真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった。

なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明。兄、真田信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣、戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、最右翼の馬場美濃守、そのすぐ左翼の兄、真田信綱のさらに左横に陣取り、右翼部隊の一端を担う。

5月21日の設楽原決戦においては、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。

ここでは、首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく真田信綱とともに討死した。

享年33、法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽ヶ原に墓が現存する。

子、真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた。
今も越前真田家として存続している。


真田 信綱 (sanada nobutsuna)

誕生1537年(天文6年)死没1575年6月29日(天正3年5月21日)

戒名 信綱寺殿天室道也大禅定門 信綱寺殿大室道也大居士
 
墓所 長野県上田市真田町信綱寺 設楽ヶ原

父母 父、真田幸隆 母、河原隆正の妹・恭雲院 

兄弟 信綱、昌輝昌幸、信尹、金井高勝

正室:高梨政頼の娘・(於北様)(井上次郎座衛門の娘とも)

子 信興、信光、娘(真田信幸正室のちに側室)

武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。

幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

生涯

天文6年(1537年)生まれである事は『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた。

永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、真田幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である真田信綱が事実上支配していたと思われる。

戦場では専ら父・幸隆弟、真田昌輝らと共に行動しており、真田幸隆と共に信濃国や上野国を転戦した。

永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。

元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

天正2年(1574年)5月に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継いだ。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟、真田昌輝と共に戦死した。享年39。