2015/02/20

豊臣秀吉正室北政所ねね (nene)







誕生

尾張国の杉原定利・朝日殿の次女として生まれる。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝・七曲殿の養女となり浅野家(後の広島藩浅野家)の娘となる。

豊臣秀吉との結婚

1561年(永禄4年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。

ふたりの間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。加藤清正と福島正則、黒田長政、小早川秀秋などが居た。

長浜城に転居

天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。
この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。

幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り、秀吉と再会する。

大阪城に転居

その後、豊臣秀吉と共に大坂城に移り、1585年(天正13年)、豊臣秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。

天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。

1588年5月9日(天正16年4月14日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。

1593年(文禄2年)から始まった文禄・慶長の役への日本の補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。

豊臣秀吉没後

1598年9月18日(慶長3年8月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。

1599年(慶長4年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移徙した。

関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。

このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により勧修寺晴子准后の屋敷に駆け込むという事件もあった。

合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した。

豊臣秀吉から河内国内に与えられていた大名並みの1万5,672石余の広大な領地は、合戦後の慶長9年に養老料として徳川家康から安堵されている。この時石高は1万6,346石余に微増。

高台寺へ

1603年(慶長8年)、養母の死と、秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。

1605年(慶長10年)、実母と豊臣秀吉の冥福を祈るために徳川家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立し、その門前にも屋敷を構えた。

大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、木下利房が護衛兼監視役として付けられた。

そして、身動きを封じられたまま1615年(元和元年)、大坂の役により夫秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績で備中国足守2万5千石藩主に取り立てられた)。

だが徳川家との関係は極めて良好で、秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。

またなお公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物が皇居に届けられたことが、「御湯殿のうえ日記」から知れる。

高台院屋敷にて死去

1624年10月17日(寛永元年9月6日)、高台院屋敷にて死去。

享年については76、77、83などの諸説がある。

なお最晩年に木下家から甥利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えたため、遺領約1万7,000石のうち3千石分は利次によって近江国内において相続された。

羽柴利次となった利次であったが、養母北政所の没後、羽柴を称することを江戸幕府から禁じられ木下に改称する。

子孫は江戸時代も旗本として続いた。

実家である杉原家は、秀吉により「木下」に改姓させられたが、甥(家定の子)らが興した足守藩・日出藩の両木下家は、江戸時代を通じて小大名として存続した。

親戚の杉原家も小領主ながら幕末まで残った。足守木下家からは歌人木下利玄が出ている。

婚家である豊臣姓大坂羽柴家の直系は断絶したものの、養家である浅野家には傍流で女系ではあるが、豊臣姓羽柴家の傍系の血が入り、大大名広島藩浅野家として江戸時代も繁栄した。

なお、この傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。

北政所

百姓あがりの豊臣秀吉が天下を取り、摂関家出身者以外ではじめて関白になるという歴史的な出来事が起こる。その正室・ねね(のちの高台院)には、秀吉の関白補任に伴い従三位が授けられているが、彼女はこの直後から北政所と呼ばれるようになっていることから、叙位と同時に「北政所」の称号を贈る宣旨も出たものと考えられる。


北政所はただ「糟糠の妻」として大きな発言力をもっていたのではなく、卓越した管理能力と繊細な外交手腕、そして調停などには不可欠な大局を見定める眼という、きわめて高度な政治力を身につけた当時としては傑出した女性で、その存在は単なる「天下人の妻」を大きく越えたものだった。本来は「その任を子弟に譲った前関白」を意味する普通名詞だった「太閤」が秀吉以後は専ら秀吉のことを指す固有名詞のようになったのと同じように、それまでは「摂政関白の正室」の称号だった「北政所」も、このねね以後は専ら彼女のことを指す固有名詞として定着し今日に至っている。


なお正室に贈られる「北政所」に対して、摂政関白の生母に贈られる称号を「大北政所」、略して「大政所」(おお まんどころ)といった。これも豊臣秀吉の生母・なかに贈られてからは、専ら彼女を指す語になっている。



「北政所黒印状(孝蔵主奉書)」: 摂津三田藩藩主有馬則頼に北政所が融資していた黄金五枚が無事返済されたことを記した証書。「有馬中務少輔則頼」宛て。筆者・差出人は豊臣家筆頭奥女中の孝蔵主。北政所所用の黒印を据え仮名消息の体裁をとっている。紙本墨書。
(名古屋市博物館収蔵)