2015/02/26

矢沢 頼綱(yazawa yoritsuna)

誕生1518年(永正15年) 死没1597年6月21日(慶長2年5月7日)

別名 源之介、頼幸、綱頼、頼綱、薩摩守、剣光殿釆宗良泉居士

父、真田頼昌 母、海野棟綱の娘

兄弟 真田綱吉真田幸隆、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重

妻 正室 根井清雲の娘

子 長男、矢沢頼康、次男、矢沢頼邦 女子(海野幸貞妻)

墓 良泉寺

官位 薩摩守

真田頼昌の三男である矢沢頼綱は、諏訪神氏の一族で真田の地に隣接する矢沢の地にいた矢沢氏の養子になりました。

若い頃出家し、京都鞍馬の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗したとされる。武田信玄に仕える兄、真田幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。

天文10年(1541年)5月の海野平合戦で真田幸隆とともに海野氏に与して敗北し、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従った。ただ、この頃は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として甲斐武田家に従っていた。

真田幸隆の後を継いだ真田信綱に従い、永禄6年(1563年)9月の上野岩櫃城攻略で功を立てた。以後は真田家の吾妻郡平定で先頭に立って働き、一時期は岩櫃城代を勤めた。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで真田信綱が亡くなると、真田家を継いだ真田昌幸に従って矢沢頼綱は吾妻郡の経営や沼田領侵攻の指揮を執った。

同年、矢沢氏の菩提寺である良泉寺に10貫文を寄進した。

天正7年(1579年)頃から、武田勝頼の下で政務を執る真田昌幸に代わり、沼田城の攻略に従事した。

天正8年(1580年3月)再び沼田城を攻めますが、名胡桃城を手中に収めるも北条氏邦などの援軍により、撤退しました。

同年5月4日、 沼田城を無血開城させました。

天正9年(1581年2月11日)矢沢頼綱は武田勝頼から沼田城攻略の戦功を称えられて太刀を拝領しました。

天正9年(1581年11月)に起こった海野幸光、輝幸による謀反疑惑では、矢沢頼綱が海野氏を討伐すべきであると真田昌幸に進言したことにより、真田昌幸は海野氏がいる岩櫃城・沼田城を攻略、海野氏を討伐しました。

これにより、真田氏の組織内部の不安定要素は低減し、結束は確固たるものへとなりました。

天正11年(1583年)矢沢頼綱は真田昌幸から沼田城主を城代として任され、白根の地など200貫文を与えられました。


天正13年(1585年8月)、沼田の地を北条氏に明け渡す様に迫った徳川氏に対して全面拒否を打ち出した真田昌幸を討つため、徳川氏は上田小県の地に鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・柴田重政らを送り込み、第一次上田合戦が勃発しましたが、真田昌幸による徳川氏撃退作戦が成功を収めました。

天正13年(1585年9月)、徳川方が八重原付近で体制の立て直しをしていた一方で、真田昌幸が上田から動けない状況下で北条氏直による沼田城への直接攻撃が始まりました。

北条氏の大軍を迎え撃つために、矢沢頼綱は沼田の中心へ向かう途中にある木戸口付近に薪を集めました。

北条方が城内へ侵入しようと木戸口付近に大挙して攻めてきた時に、城内から農民達に松明を敵兵に向かって投げつけさせました。


松明の火によって甲冑が燃えたり、馬が暴れるなど北条氏は門の前で混乱に陥りました。
矢沢頼綱は城内から15000人の兵を出撃させたため、北条方は十分な攻撃ができずに撤退しました。

天正14年(1586年5月)北条方による沼田城攻撃では、矢沢頼綱が沼田を攻める北条氏邦に宛てた書状で「山中へのご出張、誠にもってご苦労の極みに候」と小馬鹿にしました。

これに対して北条氏邦は「山中珍しく覚うるにつき、鷹狩り仰せ付けられ候」、つまり鷹狩りのついでに沼田へ攻めるのだと返事をしましたが、この時の北条氏による沼田城攻略も成功しませんでした。

沼田城を北条氏が数度にわたって攻撃してきた時、上杉氏に応援を要請するなどして、矢沢頼綱は沼田城を守りきりました。


吾妻郡中之条の地に林昌寺(群馬県吾妻郡中之条町)を創建しています。

1597年6月21日(慶長2年5月7日)矢沢頼綱は享年80歳で亡くなりました。

息子の矢沢頼康は大阪の陣で真田信之の長男、真田信吉・次男、真田信政をサポートした。