2015/03/02

真田 清鏡(sanada kiyoaki)

誕生 1541年(天文10年)? 死没1599年(慶長4年)? 58歳? 

父母 父、真田幸隆 母、羽尾幸全の娘?

墓 羽黒山奥之院の荒沢寺 羽黒山麓の金剛寺

真田幸隆が領地を追われ、上野亡命中の天文10年(1541年)、真田幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残っている。

真実であれば、真田昌輝の兄、真田信綱の弟になるため、本当は真田幸隆の次男となる。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となったようである。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置に際し、不満を持った南部一門の九戸政実・実親兄弟が南部宗家に対して興した九戸政実の乱に際しては、四戸家の南部利直を支援した。

その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得た。しかし慶長4年(1599年)に南部家と南部城中に宿泊時にささいな行き違いに憤って切腹。

城門に腸を叩きつけたと言う。

醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継ぎ、南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡の霊を祀ったと言われる。清鏡の墓は羽黒山奥之院の荒沢寺と羽黒山麓の金剛寺院にあると言う。

金井 高勝(kanai takakatsu)

誕生 不明 死没 1606年8月10日(慶長11年7月7日)

別名 真田信春 

法号 高勝寺殿龍顔宗白大居士

墓 龍顔寺

父、真田幸隆 母、不明

妻 不明

子 不明

金井高勝は真田幸隆の5男(4男?)で人物像、経歴は不明です。

真田信春として戦国の世を乗り越えましたが、いつからか農民になり金井高勝を名乗りました。
龍顔寺の西方に二重の堀跡が残っている居館跡があり、そこには真田宮内大神が祀られています。

金井高勝の甥である真田信之は、高勝が亡くなった翌年である1607(慶長)年6月26日付の寄進状で、金井高勝の冥福を祈って3貫文を高勝寺に寄進しています。