誕生 不明 死没 1572年(元亀3年)7月8日 享年不明
父母 父、真田頼昌 母、海野棟綱の娘
別名 新六郎、真田幸真、七左衛門、綱富、俊綱、伊予、出羽守、隆家
兄弟 真田綱吉、真田幸隆、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重
妻 不明
子 長男:俊綱、養子:隆頼(河原隆正の三男)
墓 月窓寺
真田頼昌の四男である隆永が養子として入った常田氏は、現在の上田市の中心部の一部である常田の庄を治めていた豪族でした。
兄である真田幸隆が武田氏の下で海野氏の主流派として活躍している時は、武田氏の家臣として幸隆を支えていましたが、矢沢頼綱よりも早い時期に真田氏の家臣になったものと思われます。
兄である真田幸隆、矢沢頼綱と共に武田氏の家臣となり奮戦した後、吾妻郡の箱岩城の城主となりました。
岩櫃城攻略の真っ直中だった1563(永禄6)年9月に起きた長野原合戦で、上杉氏からの攻撃に対して隆永は激しい攻撃から城を守りきりましたが、この戦いで長男俊綱が戦死しました。
その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。
徳川氏の下で上田小県を平定した真田昌幸が常田の庄を含む現在の上田城周辺を上田に改名し上田城を築きました。
江戸時代以降に藩主邸として使われた場所は真田昌幸が上田城に在城した当時では、常田屋敷と呼ばれたという説もあります。
常田隆永は晩年、剃髪して道尭と名前を付けてました。
詳細の不明な部分が多く分かり次第更新します。
父母 父、真田頼昌 母、海野棟綱の娘
別名 新六郎、真田幸真、七左衛門、綱富、俊綱、伊予、出羽守、隆家
兄弟 真田綱吉、真田幸隆、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重
妻 不明
子 長男:俊綱、養子:隆頼(河原隆正の三男)
墓 月窓寺
真田頼昌の四男である隆永が養子として入った常田氏は、現在の上田市の中心部の一部である常田の庄を治めていた豪族でした。
常田隆永本人が戦死した説もあります。
その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。
江戸時代以降に藩主邸として使われた場所は真田昌幸が上田城に在城した当時では、常田屋敷と呼ばれたという説もあります。
常田隆永は晩年、剃髪して道尭と名前を付けてました。
詳細の不明な部分が多く分かり次第更新します。