真田 信之(さなだ のぶゆき)
別名 一当斎(号)
改名 幼名 源三郎→真田信幸→真田信之
法号 大鋒院殿徹巌一当大居士
父母 父、真田昌幸、母、山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘)
兄弟 信繁、昌親、信勝、村松殿(小山田茂誠室)、真田幸政室、鎌原重春室
保科正光室 於菊(宇多頼次室のち滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽
正室 小松姫(本多忠勝の娘)
側室 右京の局(玉川秀政の娘)、真田信綱の娘
子 信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端
墓 長国寺 住所 長野県長野市松代町松代田町1015-1
長野県長野市松代町の大鋒寺
和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院
1566年(永禄9年)武藤喜兵衛(真田昌幸)の長男として生まれる。
1658年(万治元年)10月17日93歳で逝去しました。
「信濃の獅子」と評されていた。
関が原合戦後の上田城は、本丸・二の丸といった中心部は破却 されましたが、現在の上田高等学校の地に藩主屋敷を設けたり、城下町の拡張整備に努めました。
上田の城下町は、信之の時代にその大部分ができました。
また、用水堰の開削やため池の築造をし灌漑 施設の整備を進めるなどの事業も行いました。
武田家臣時代
1566年(永禄9年)武藤喜兵衛(真田昌幸)の長男として生まれる。
武藤喜兵衛(真田昌幸)が甲斐の武田家に臣従したため武田家の人質として過ごした。
1579年(天正7年)に武田勝頼の嫡男・信勝の元服と同時に元服を許され、武田信玄の1字を賜って真田信幸(真田信之)と名乗ったとされる。
1582年(天正10年)3月織田信長、徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領への侵攻が行われ武田家が滅亡すると人質だった母の山手殿と共に上田の父、真田昌幸の元へと逃れた。
武田滅亡後
織田信長の死を知った北条氏直は織田家臣・滝川一益を神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川一益を支援し、途中まで見送ったという。
だが、やがて徳川家康の家臣・依田信蕃、叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還、真田家は北条氏に敵対する。
真田信幸(真田信之)は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げた。
依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
1584年(天正12年)真田家は小県郡を支配する室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に真田信幸(真田信之)は父、真田昌幸と共謀して当主・室賀義澄を殺害し、真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した真田信幸(真田信之)は吾妻仙人ヶ窟にてこれを撃退している。
徳川家臣時代
真田信幸(真田信之)は支城の戸石城に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。
その後、真田昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には徳川家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。
その後、真田昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には徳川家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。
真田信幸(真田信之)の才能を高く評価した徳川家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に真田信幸(真田信之)を出仕させて娶らせた。
1590年(天正18年)の小田原征伐では上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。
1590年(天正18年)の小田原征伐では上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。
1594年(文禄3年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される(同日、弟、真田信繁(真田幸村)は従五位下左衛門佐に叙任)。
その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。
文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。
父、真田昌幸(妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の真田信繁(真田幸村)(妻が大谷吉継の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、徳川家康の養女を妻とする真田信幸(真田信之)は徳川家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。
戦いの前に義弟の本多忠政と共に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
真田信幸(真田信之)は弟、真田信繁(真田幸村)が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、真田信繁(真田幸村)も兄、真田信幸(真田信之)の意を汲み開城に応じた。
真田信幸(真田信之)は弟、真田信繁(真田幸村)が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、真田信繁(真田幸村)も兄、真田信幸(真田信之)の意を汲み開城に応じた。
真田信幸(真田信之)は入城後守備し、真田信繁(真田幸村)は真田昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は徳川家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加することができなかった。
義父の本多忠勝の働きかけもあり、真田昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
1614年(慶長19年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣している。
1614年(慶長19年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣している。
1622年(元和8年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
1656年(明暦元年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。
1658年(万治元年)2月に信政も死去した。
この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主、信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。
最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために真田信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月17日に死去。享年93。