2015/02/24

真田 信尹(sanada nobutada)

誕生 1547年(天文16年) 死没1632年(寛永9年)5月4日 享年86歳

別名 源次郎、加津野市右衛門、信昌、隠岐守

妻 正室、馬場信春の娘

子 長男、幸政 次男、正信

墓 龍岸寺 住所 山梨県北杜市長坂町長坂上条1666

1547年(天文16年)、真田信尹が真田幸隆の四男として生まれました。母は真田幸隆の側室。

1551年(天文20年)年5月26日、父、真田幸隆が武田方の悲願だった戸石城を攻略を果たし、これにより真田幸隆は本拠地である小県の領地に復帰しました。

1553年(天文22年)8月10日武田氏への忠誠を誓うために、真田信尹は兄、真田昌幸と共に甲府の武田氏へ人質として出されました。(信尹7才、兄昌幸7才、信尹と昌幸は腹違いの兄弟)

真田信尹は武田氏の家臣である加津野氏の養子となって加津野市右衛門信昌を名乗りました。

真田信尹は槍奉行として騎馬15騎、足軽10人の戦力を与えられました。

武田信玄の下で信州先方衆として活躍し、 1569年(永禄12年)に深沢城(静岡県御殿場市深沢)の北条左衛門大夫綱成を攻めた時、綱成の指物である黄八幡旗を奪いました。

武田氏滅亡後は北条氏・池田輝正・徳川氏・蒲生氏郷の順に主を転々と変えました。

1582年(天正10年)徳川氏の家臣になり、その頃から真田姓に復帰し真田信尹を名乗り始めました。

武田氏滅亡後、信濃は徳川・北条・上杉の草刈り場と化しました。
真田信尹は真田家の当主になっていた兄、真田昌幸を依田信蕃とともに徳川方に必死に勧誘しました。

1582年(天正10年)9月下旬、兄、真田昌幸は徳川家康の家臣になり、真田信尹は徳川家康からその褒美として五十両を賜りました。

その後、使い番に抜擢され、甲斐国巨摩(こま)郡内に3000石を与えられ、 大蔵村に屋敷を構えました。

関ヶ原の戦い・大坂の役では徳川軍として参戦しましたが、大坂の陣で真田信尹は本多正純を通じて徳川家康から豊臣方に属した甥の真田信繁(幸村)を勧誘する役割を与えられました。

度重なる勧誘工作の後、最後には信濃一国を与えると言って真田信繁(幸村)を勧誘しましたが、真田信繁(幸村)はそれを突っぱねました。

大坂の役での働きを評価され、旗奉行に格上げ、1000石を加増され、4000石になりました。

子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた。子孫は4つの系統に分かれ、その内の2家が明治維新まで存続した。