2015/02/10

真田 昌幸(sanada masayuki)






真田 昌幸(さなだ まさゆき)上田城城主

別名 幼少 源吾 源五郎
    改名 武藤喜兵衛 → 真田昌幸

叙任 安房守

法号  長谷寺殿一翁千雪大居士

妻 正室:山之手殿(寒松院)

子供 長男:信之(信之)、次男:信繁(通称は幸村)、三男:昌親、四男:信勝

長女:村松殿(小山田茂誠の妻)、次女:名前不詳、三女:名前不詳、

四女:名前不詳、五女:名前不詳、六女:清光院、七女:楽


墓 善名称院(真田庵)住所 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
     長谷寺                 住所 長野県上田市真田町真田 

供養碑 長国寺           住所 長野県長野市松代町松代田町1015-1


1547年 真田幸隆(幸綱)の3男として生まれる~1611年6月4日 九度山真田庵で病死した。享年65(67とも)
謀略・武勇ともに長け、籠城戦を得意とした。築城にも才を持っていた。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られる。
真田昌幸を表現した言葉で「小信玄」「信玄の懐刀」

豊臣秀吉から「表裏比興の者(くわせもの)」がある。

誕生   

1547年信濃の豪族真田幸隆(幸綱)の三男として生まれる。
誕生日は不明で幼名は源五郎である。
当時、幸隆 長男真田信綱 次男真田昌輝が居たため家督相続の権利はなかった。

武田信玄の時代

1553年(天文22)8月10日源五郎(真田昌幸7歳)は弟、信尹(信昌)とともに甲斐武田家への人質として甲斐国に下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
武田晴信(武田信玄)は父、真田幸隆長男、信綱にも劣らぬ才能を早くから見抜いて寵愛したと伝えられている。
武田二十四将にも数えられた事もある。父、兄弟3人が武田二十四将に数えられる家は真田家だけであった。
この時の奥近習衆は源五郎(真田昌幸)の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられている。

源五郎(真田昌幸)は信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛と称し足軽大将に任しられその軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている。

初陣は武藤喜兵衛(真田昌幸)15歳1561年(永禄4年)9月の第四次川中島の戦いと伝えられて足軽大将として
武田家奉行人にも加わったと伝えられている。

1569年(永禄12年)10月6日、武藤喜兵衛(真田昌幸)は、北条氏康、氏政、氏照との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。この北条家との戦いで一番槍の高名を挙げたと伝えられている。

1572年(元亀3年)10月武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄の西上作戦に参陣して12月の三方ヶ原の戦いに騎馬15騎、足軽30人を率いて出陣している。この戦いにて浜松城に敗走した徳川家康らを追撃すべきと言う意見に反対したとされている。

武田勝頼の時代

1573年(元亀4年)4月 武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。

1574年(天正2年)父・真田幸隆(幸綱)が死去する。

真田家の家督は長男・真田信綱が継いでいた。

1575年(1575年)5月21日織田信長、徳川家康連合軍との長篠の戦いで長男真田信綱次男真田昌輝が討死した。
武藤喜兵衛(真田昌幸)は長篠の戦いは武田勝頼本隊旗本衆として出陣していたため討死は免れていた。

長男真田信綱、次男真田昌輝が討死したため武藤喜兵衛が本来の真田姓を名乗り、真田昌幸が真田家の家督を相続した。
武藤領は返納し相続した領土は真田領のみであった。

家督相続後、真田昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは武田勝頼への甲府出仕も多かったとされていて真田領と甲斐を往復する事を繰り返していたようである。

1578年(天正6年)3月13日、上杉謙信が病死して御館の乱を経て甲越同盟が成立する。

1579年(天正7年)9月、真田昌幸は武田勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領へ侵攻した。
真田昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父、矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
その時、名胡桃城の城主鈴木重利と小川城の城主小川可遊斎を投降させて名胡桃城、小川城を手に入れた。
名胡桃城、小川城を拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が沼田城の援軍に駆け付けたために撤退した。

1580年(天正8年)3月、沼田城の攻撃を再開する。
猿ヶ京城も攻め落とし金子泰清、藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。
この年に安房守に叙任する。


1581年(天正9年)武田勝頼の命令により新府城の作事奉行を務めた。
元沼田城の城主沼田景義が旧領土奪回を図ったが真田昌幸は家臣の金子泰清に命じて沼田景義を討ち取った。

1582年(天正10年)3月織田信長、徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領への侵攻が行われた。
真田昌幸は武田勝頼に武田領の甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが武田勝頼は岩殿城を目指して落ち、その途中で岩殿城の城主小山田信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。

武田家滅亡後、真田昌幸は織田信長の家臣となり真田領はそのまま真田昌幸の領土となる。
織田家の重臣、滝川一益の与力武将になる。
沼田城城主には滝川益重がなる。

天正壬午の乱

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長が自害する。
真田昌幸は織田家に従属してから僅か3ヶ月後の事であった。

本能寺の変により織田信長から旧武田領の統治を任されていた森長可、毛利秀頼、道家正栄、織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、旧武田領の甲斐国主の河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが争奪戦を繰り広げた。

真田昌幸はこの好機を見逃さず信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。
織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった
しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。

真田昌幸はこの会合には参加していないが、会合の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が真田昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。

そして彼らの代表者が岩櫃城にいた真田昌幸の下を訪れ、真田昌幸は総大将を快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。

この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。

6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1000貫文を与えた。

6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。


6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、神流川の戦いにて滝川一益を破った。
この時、真田昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた


6月21日、真田昌幸は滝川一益がいなくなり上野も無主になるとに叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。
また、嫡男の真田信之を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。

6月24日上杉景勝が進軍して長沼城に入った。
真田昌幸は上杉景勝に臣従した。

7月9日真田昌幸は北条氏直に降った。

7月12日北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。
この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。

8月9日上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。
9月25日真田昌幸は佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る。

10月29日若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は和睦の途を選択する。
しかし、北条氏との同盟を選択した徳川家康は北条氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。
真田昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条連合と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。

これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴への参加に他ならない。

この時、厩橋城の北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。

徳川家康との対立

1583年(天正11年)真田昌幸は松尾城(後に上田城)と城下町を築いた。
北条氏と通じていた禰津昌綱、屋代勝永、室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。
これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっている。
真田昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。

1584年(天正12年)3月小牧・長久手の戦いで徳川家康は主力を率いて尾張に向かい、真田昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。

真田昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を攻めさせ、沼田城周辺で後北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、小県郡を完全掌握するために室賀氏を謀殺して滅ぼした。
こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。

12月に徳川家康は羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。

天正13年(1585年)4月徳川家康は北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため甲府に軍を進めて真田昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。
しかし真田昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否。
徳川家康はやむなく浜松城に引き返した。

7月15日真田昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えてに次男の真田信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に従属する。

8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を真田昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
真田昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。

豊臣政権時代

1585年(天正13年)冬、次男の真田信繁(真田幸村)が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、真田昌幸は豊臣家に臣従する。

1586年(天正14年)真田昌幸は佐久に侵攻する。
5月25日、北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退した。
7月、徳川家康が真田昌幸征伐のために甲府に出陣する。
8月7日、豊臣秀吉の調停を受けて真田昌幸攻めを中止。
11月4日、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となった。

1587年(天正15年)3月18日真田昌幸は駿府で徳川家康と会見し、その後大坂で豊臣秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。

1589年(天正17年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され真田昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。

この頃、真田昌幸は在京していたが11月には後北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされ小田原征伐の原因となる。

1590年(天正18年)小田原征伐に際しては次男の真田信繁(真田幸村)と共に参戦し石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城に在陣している。

関ヶ原合戦

1600年(慶長5年)7月、徳川家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた真田昌幸もこれに従っていた。

徳川家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に徳川家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。

真田昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇多氏を通じて石田三成と姻戚にあった関係から次男・真田信繁(真田幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。

9月6日(10月12日)東軍、徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中山道を下り、には上田城攻略を開始する。
真田昌幸は2000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた(第二次上田合戦)。
中山道制圧の任にあった徳川秀忠軍は徳川家康から上洛を命じられ、上田城攻略を諦める。
この時、上洛を命じる徳川家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ徳川秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いに遅参することになる。

真田昌幸は関ヶ原の戦いでの石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(真田幸村)を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えた。
西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。

配流

関ヶ原の戦後処理における処分では、徳川家康より真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子には上田領没収と死罪が下される。

真田昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の真田信幸(後の真田信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた。

信濃上田の真田領に関しては真田信幸(後の真田信之)に与えられ、沼田2万7000石、上田3万8000石、加増3万石の合わせて9万5000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。

1600年(慶長5年)12月13日真田昌幸はに上田城を発して高野山に向かった。

真田昌幸の正室は上田に残留し、次男の真田信繁(真田幸村)とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った。


真田昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、徳川家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。

高野山での真田昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし真田信繁(真田幸村)が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われている。

なお、流人ではあるが真田昌幸・真田信繁(真田幸村)の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。

真田昌幸の生活費に関しては国許の真田信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。ただ、これは逆に真田信之との仲が疎遠になったわけではなく、親密に続けられていた事が伺える。

最期

10年余り続いた流人生活は真田昌幸の気力を萎えさせた。
晩年の3月25日付(年次不明)の真田信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とある。

また配流当初には真田信之を通して赦免運動を展開し、1603年(慶長18年)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたようである。

また国許の家臣との関係も親密で、家臣が真田昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もある。

最晩年の真田昌幸は病がちだった。

信之宛の書状では真田信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。

また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた真田昌幸を苦しめたようである。

1611年(慶長16年)6月4日、九度山真田庵で病死した。享年65(67とも)