真田信繁は1568(永禄11)年に武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の次男として生まれました。
母親は山手殿(寒松院)です。
幼名は源二郎または弁丸でした。
幼名は源二郎または弁丸でした。
徳川家康は豊臣秀吉との対立に専念するために、それまで敵対していた北条氏と和議を結ぶため、真田昌幸に沼田を北条氏に渡すように命令しました。
真田昌幸は武田氏の時代に真田幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、この命令には従わず徳川氏と絶縁しました。
徳川氏と北条氏の駆け引きで領地を取られることを避けたい真田昌幸は、豊臣秀吉と和を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。
上杉氏にとって、越後の目と鼻の先で武田方の最前線で勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは徳川氏に対する牽制の意味もありました。
8月、真田昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために真田信繁(真田幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19歳)
8月、真田昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために真田信繁(真田幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19歳)
真田信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。
この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し上杉景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を真田信繁(幸村)に分け与えました。
真田信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は真田信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、上杉景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。
出陣は許可されませんでしたが、真田信繁(真田幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。
この頃、真田信繁(真田幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には真田信繁(真田幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。
1586(天正14)年5月、上杉景勝が本拠地である春日山を出て上洛をしました。
真田昌幸は上杉景勝が留守になったこの時を狙って、真田信繁(真田幸村)や上杉氏指揮下にあった真田隊を上田に呼び戻しました。
徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した真田昌幸は真田信繁(真田幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。
徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した真田昌幸は真田信繁(真田幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。
これを知った上杉景勝は激怒して豊臣秀吉に真田信繁(真田幸村)を引き渡すよう強く要求しました。
この頃、真田信繁(真田幸村)は真田氏家臣である堀田作兵衛興重の妹(この時は興重の養女)と結婚し、長女である於菊を産ませています。
この戦いに真田昌幸と真田信幸(真田信之)は、前田利家と上杉景勝の連合軍の先鋒として参戦しました。
豊臣秀吉のお付きとして真田信繁(真田幸村)は、小田原へ随行しました。
この時に、真田信繁(幸村)が豊臣秀吉のもとから実家へ戻り、真田昌幸や真田信幸(真田信之)とともに北条討伐での松井田城・箕輪城攻略に参戦したという説もあります。
北条討伐が真田信繁(真田幸村)の初陣でした。
1594(文禄3)年11月、真田信繁(真田幸村)は兄(真田信之)と共に官職が与えられ、従五位下左衛門佐になり、豊臣姓の名乗りを許されました。
朝鮮出兵では豊臣氏の組織内部での雑務をしていました。
1598(慶長3)年8月13日、豊臣秀吉が伏見城で病死しました。(享年62歳)