2015/03/11

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 豊臣秀吉死後~関ヶ原合戦前

豊臣秀吉の病死後、真田氏は徳川家康に従って行動をとっていました。

1600(慶長5)3月、徳川家康が伏見から大坂に移ると、それに伴い真田氏も伏見から大坂に移りました。
多くの大名に対して徳川家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊しました。
五大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を深めていきました。

上杉景勝は家康に反抗する姿勢を示し、領地である会津に戻り籠城に近い状況になりました。

6月16日、五大老の中で徳川家康の上洛命令に従わなかった上杉景勝を討伐するために、徳川家康は大坂から関東へ約6万の大軍を率いて向かいました。

徳川家康は自分が大坂から離れると反徳川勢力である石田三成が挙兵することを確信していたようで、徳川軍は反徳川の勢力が兵を挙げるかどうか様子をうかがいながら東に進み、豊臣秀吉恩顧の大名であった福島正則・黒田長政・細川忠興・堀尾忠氏・浅野幸長・池田輝政らも徳川家康に同調し、江戸に集まり出しました。

この頃、石田三成は豊臣秀吉恩顧の大名に対して徳川討伐の挙兵に協力するよう要請をしています。会津の上杉氏と西国の大名で挟み撃ちにする意図がありました。

7月に入ると、石田三成は佐和山城から大坂城へ移り、かつての五奉行衆に名を連ねていた増田長盛・長束正家・前田玄以らと共に豊臣秀頼を擁立して兵をあげました。しかし、増田長盛は徳川方のスパイだったので、西軍の情報は筒抜けだったようです。

7月19日、西軍の宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋らは家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。

真田信幸(真田信之)は江戸まで兵を率いて将軍徳川秀忠のもとへ参陣し、1600(慶長5)年7月19日、他の徳川家臣とともに徳川本隊として江戸を出発しました。

7月20日、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は下野の犬伏宿に着陣し、徳川秀忠隊も宇都宮に着陣しました。

7月21日、犬伏宿にて待機していた真田昌幸へ石田三成から7月17日付の密書が届きました。

その手紙は豊臣氏の奉行である長束正家(なつか まさいえ)、増田長盛(ました ながもり)、前田玄以らの連名があり、豊臣家をないがしろにする徳川家康を討伐するために西軍へ加わって欲しいというもので、密書を届けた使者からは真田昌幸の娘婿である宇田頼次と真田信繁(真田幸村)の義父である大谷吉継が西軍に入ったということを聴きました。

真田昌幸は真田信繁(真田幸村)に、義父である大谷吉継が西軍に入ったことを伝えたと思われます。

これを受けて真田昌幸は、徳川秀忠本陣付近にいた真田信幸(真田信之)を呼び寄せて、犬伏のとある民家の離れに呼び、真田父子3人で今後の行動について話し合いました。

この時、話し合いが長くなっていることを心配した家臣が様子を見に行ったところ、それに気が付いた真田昌幸は「誰も来るなと命じたはずだ。」と怒鳴り下駄を投げつけ、その下駄が顔に当たって家臣の歯が折れてしまったと言う逸話が伝わっています。

真田父子3人で話し合った結果、真田昌幸は過去の徳川家康に対して信頼感を持つことができず豊臣方になることを選択し、長男、真田信幸(真田信之)は正室が本多忠勝の娘で徳川家康の養女であることや、徳川氏の家臣として沼田領の領主になったという経緯もあったため、徳川方につきました。

次男、真田信繁(真田幸村)は豊臣氏の家臣であり、正室である竹林院の父である大谷吉継が石田三成からの説得で豊臣方になったことともあり、父、真田昌幸に従いました。

その結果、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は豊臣方へ、真田信幸(真田信之)は徳川方へと別れて、それぞれ西軍と東軍に入り、親子で敵対する陣営に別れてでも、武士としてそれぞれの立場を保ちつつ真田氏の家系と領地は守らねばならないと判断したのです。

真田氏が徳川方と豊臣方の東西に別れたことを詠った川柳があります。
「東西にみごろを分ける真田縞 銭づかい上手にしたは昌幸 たね銭が関東方に残るなり」