1600(慶長5)年7月21日、大坂から江戸に着いた徳川家康は、上杉氏を牽制するために江戸を出発し北上しました。
7月23日、西軍に加わることを決めた真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発しました。
真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は犬伏から上田へ帰る途中で沼田城に立ち寄ろうとしましたが、真田信幸(真田信之)の妻である小松殿は2人を城に入れるとそのまま占領されてしまうのではと危惧し、入城を拒否されました。
真田信幸(真田信之)は滞在する宇都宮から小松殿に対して「父弟が沼田に寄った時は城内に入れないように」という指示を2人が到着する前に出していた可能性があります。
沼田城への入城を拒否された真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、武力で沼田城を攻略することなく、上田へ帰りました。この時、真田信繁(真田幸村)が腹いせに沼田城下へ火を放とうとしたところ、真田昌幸に止められたという話も伝わっています。
西軍にとって、沼田は大坂から上田、さらに会津までの連絡中継点として重要な場所でした。
徳川家康は上杉討伐の先発隊である徳川秀忠と合流し7月24日に下野の小山に着陣しました。
真田信幸(真田信之)は着陣した徳川家康に拝謁し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である真田信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓いました。
この時、徳川家康は東軍に入った真田信幸(真田信之)を大いに褒め称えたと言われています。
会津や越後などの監視をする為に沼田へ戻った真田信幸(真田信之)は、4歳だった真田信政を人質として江戸に送りました。
徳川家康は7月27日付けの書状で、真田昌幸の領地である小県郡を真田信幸(真田信之)に与えることを約束しました。
7月25日に徳川氏率いる東軍は、石田三成を中心とする西軍に対して合戦を挑むことを小山にて話し合い、福島政則、池田輝政らが先発隊として西に兵を進みはじめました。
徳川家康は江戸に戻って諸大名に向かって自分へ味方するように連絡を取りつつ、周囲の状況を伺っていました。
このことは、徳川家康が東軍である福島政則らかつて秀吉恩顧であった大名を完全に信頼しきっていた訳ではなく、大坂を出発した時から上杉や伊達の行動を注意深く見守りつつ、味方の中にも分裂の要素が多分にあった事を物語っています。
東軍が、上杉氏から背後を突かれて大損害が出る可能性は、伊達氏が東軍に入ったことで、ほぼ解消され、東北では伊達氏と上杉氏が対立する構図が固まりました。
西軍として行動するために上田へ戻った真田昌幸は、石田三成に対して挙兵について事前に相談がなかったことを石田三成に手紙で怒り、さらに8月に入った時点でも石田三成西軍へ正式に加わるという返事を真田昌幸は出しませんでした。
石田三成を焦らす事で西軍での真田氏の重要性を強調するためだったようで、真田信幸(真田信之)が東軍になったことも8月に入るまで西軍には伝えていませんでした。
その間に石田三成は真田昌幸を西軍に引き入れるため、何度も真田昌幸宛に書状を書いています。
7月30日付の書状で石田三成は、今回の決起の事を事前に真田昌幸へ相談しなかったことを詫び、8月10日付では信州のみならず甲斐までも真田昌幸に任せることを西軍幹部で決めた事を書くなど、石田三成の真田昌幸に対する気遣いは日に日に高まっていきました。
8月10日、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備えました。
8月21日、真田信幸(真田信之)は会津と上田の中間に位置する沼田で国境の警備を指揮するために、沼田に戻るため出発しました。
福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の活躍を知った徳川家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた徳川秀忠軍に西へ向かうように命令しました。
徳川秀忠は家康の後継者であり、事実上の徳川方本隊であったと思われます。
徳川秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸、真田信繁(真田幸村)を征伐をすることになりました。
この時、沼田にいた真田信幸(真田信之)にも討伐に参加するように命令が出ました。
徳川秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、本多正信、榊原康政、大久保忠隣、大久保忠常、本多忠政、酒井家次、奥平家昌、菅沼忠政、牧野康成、戸田一西、小笠原忠成、石川康長、諏訪頼水、西尾吉次らに、信濃の外様大名である森忠政、仙石秀久、真田信幸(真田信之)らも加わりました。
徳川家康から徳川秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐について反対しましたが、これを徳川秀忠は聞き入れなかったと言われています。
8月23日、福島政則・池田輝政ら東軍先発隊が岐阜城を落としました。
そして、先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、徳川家康が来るのを待ちました。
8月24日、徳川秀忠は沼田で警備していた真田信幸(真田信之)に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令し、徳川秀忠隊約38000人の兵は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)がいる上田城を目指して宇都宮を出発し、中山道を西へ進み、8月28日には松井田に到達しました。
同じ日、東軍先発隊は岐阜城を陥落させ、さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも東軍は勝利しました。
福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の快進撃や西軍への内部工作の進展、そして上杉と伊達が動かない事など、自分に有利な状況が整ったと感じた徳川家康は9月1日になって、ついに江戸城から約30000人の兵を率いて東海道を西へ進み始めました。
9月1日、徳川秀忠隊は碓氷峠を越え軽井沢に着き、9月2日には道案内役の真田信幸(真田信之)と共に小諸城に着陣しました。
真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告しました。
本多忠政は小松殿の兄であり、真田信幸(真田信之)にとって義兄でした。
信濃国分寺で真田方と徳川方による会議が行われました。
9月3日、上田城で籠城している真田昌幸が真田信幸(真田信之)を介して本多秀忠に降伏してきましたが、翌日9月4日に真田昌幸の降伏は嘘であることが判明し、時間稼ぎであることを知った徳川秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じました。
徳川秀忠が率いる東軍本隊と真田昌幸と真田信繁(真田幸村)による第二次上田合戦が始まりました。
攻める徳川秀忠隊の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われています。
真田信幸(真田信之)は徳川秀忠から真田信繁(真田幸村)が守る戸石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面でしたが、9月5日に兄弟対決を嫌った真田信繁(真田幸村)が戸石城から上田城へ退却し、それは回避されました。
真田信幸(真田信之)はまず、信繁(幸村)真田信繁(真田幸村)が退却した戸石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて戸石城に入りました。
これに伴い徳川秀忠は味方である真田信幸(真田信之)が入った戸石城を背にして、上田城と向かい合う位置にある染屋に陣を構えました。
9月6日徳川秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。
9月6日徳川秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。
上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきました。
真田方の兵を追って、刈田をしていた牧野康成の嫡男である牧野忠成の部隊が、挑発に乗って上田城の城壁近くまで押し寄せました。
この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めました。
上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る徳川秀忠隊はこの挑発に乗ってしまい、上官が攻撃を制止してももはや止めることはできませんでした。
徳川秀忠軍は上田城の周りへ押しかけましたが、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出しました。
真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は徳川方を挑発する様に40~50騎を率いて上田城外へ偵察に出ました。
これを知った徳川秀忠は依田肥前守の鉄砲隊に攻撃させ、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は交戦せずに城内へ引き揚げました。
真田氏の策略によって徳川方は混乱に陥って敗退し、戸石城までも真田軍に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられました。
人数で圧倒的有利な状況であるはずの徳川方が混乱し、敗走する部隊が出る中で徳川方の槍の達人7人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がつきました。
徳川方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めました。
本多正信は軍令違反をした部隊を厳しく処分し、大久保忠隣の旗奉行である杉浦文勝、牧野康成の旗奉行である贄掃部(にえ かもん)に切腹を命じました。
杉浦文勝は命令に従い自害しましたが、贄掃部は牧野康成から逃亡を黙認されました。
これにより牧野康成は軍列から外され、後にこの責任を問われて領地を没収されました。
9月7日になると徳川秀忠は上田攻撃を中止し、小県郡から小諸城に退却しました。
真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、徳川秀忠隊は2つに割れました。
真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、徳川秀忠隊は2つに割れました。
その後も再度の大規模な攻撃を検討しましたが断念し、9月11日(8日説も有)、石田三成側との本戦に間に合わなくなることを危惧した徳川秀忠は真田氏討伐をあきらめ、西に向けて小諸城を出発しました。
徳川秀忠軍は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かいましたが、仙石秀久・石川康長・日根野高吉・森忠政・真田信幸(真田信之)らは上田城への押さえとして小諸城に残りました。
徳川方は徳川家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に押し寄せて一斉射撃で叩かれるという同じ失敗を犯したのです。
9月13日、徳川秀忠隊は諏訪に到着しました。
9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する「関ヶ原合戦」が起こりました。
真田信繁(真田幸村)の妻、利世の父、大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。
9月16日、徳川秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着しました。
9月17日、佐和山城が陥落し、裏切りが続出した石田三成が率いる西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れました。
真田昌幸、五女の夫である宇田頼次は父、宇田頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦しましたが、戦死しました。
この時点で、徳川秀忠隊は関ヶ原から遠く離れた木曽にいました。真田討伐に手こずり失敗した徳川秀忠は結果として関ヶ原合戦に間に合いませんでした。
9月19日、徳川秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着しました。
徳川秀忠が大津城にいる徳川家康隊に合流したのは9月20日でした。
徳川秀忠は何日か徳川家康に面会してもらえなかったと伝えられています。