2015/03/13

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 関ヶ原合戦 西軍敗戦 幽閉生活



真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍徳川秀忠隊の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。

西軍の諸大名から没収された領地は、徳川氏譜代大名や東軍に入った外様大名(豊臣恩顧大名)に分け与えられました。

豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の3カ国66万石の一大名になりました。

徳川家康は西軍として上田城に籠城し、将軍徳川秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に切腹を言い渡しました。

真田信幸(真田信之)は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父、本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。

これに徳川秀忠が最も抵抗をしましたが 、本多正信からの勧めもあり徳川家康は助命嘆願を受け入れて、徳川秀忠も榊原康政から説得されて、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)の切腹は回避されました。

徳川家康は1600(慶長5)年12月上旬、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、真田昌幸は近い立場にあった16人の家来、真田信繁(真田幸村)とその妻である利世や子供、家来らと共に上田を出発しました。

真田昌幸の正室である山手殿は九度山へは行かず、上田に残りました。
 
随行した家臣16人は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵と言われています。

真田昌幸の妻である山之手殿は、その後出家して寒松院を名乗り、上田の北に位置する大輪寺で生活し始めました。

幽閉先の高野山についた真田昌幸たちは、真田氏をはじめとした上田小県の人々が菩提所としていた高野山蓮華定院をまずは訪れました。

その後、滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に屋敷を構えて落ち着きました。これは女子は高野山に入れないため、適地を探していたのだと言われています。

一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた真田信幸(真田信之)に対し、幕府は本領である吾妻郡・沼田領に加え、徳川家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。

9万5000石の大名になった真田信幸(真田信之)は徳川氏に忠誠を誓うため、名前で真田昌幸から受け継いだ幸の字(諱)を変えて、信幸を「信之」に改めたのです。

2度にわたって徳川氏の攻撃をかわした上田城は真田昌幸が去った後、本丸や二の丸などの中枢部が徳川氏によって破壊され、真田信之が入城するまでの間は幕府の命令により佐久や諏訪の領主である諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが城番を務めました。

1601(慶長6)年11月、嫁である小松殿から真田昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、真田昌幸は小松殿に礼状を送りました。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。

上田城の中枢部は利用できる状態ではなかったため、真田信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。

城主が城ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。

1601(慶長6)年、この頃、真田信繁(真田幸村)の嫡子である大助(真田幸昌)が九度山で生ました。

1603(慶長8)年2月、徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。

1604(慶長9)7月17日に徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生しました。

1605(慶長10)4月16日、徳川家康は将軍を徳川秀忠が将軍に譲り、全国に徳川幕府の将軍は世襲制であり、豊臣氏への政権委譲はあり得ないことをアピールするなど、徳川氏の政権基盤の安定化が着々と進んでいきました。

1605(慶長10)7月、徳川家康は孫の千姫を豊臣秀頼(65万7000石)と結婚させました。

その頃、徳川家康から赦免されて自由になる日が近いと信じていた真田昌幸でしたが、徳川氏と豊臣氏の対立が続く中ではそれが実現しませんでした。

上田城に入った真田信之は、北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理を1605(慶長10)年から始めました。

1605(慶長11)年には上田城下町の区画整理を完了し、現在に続く原町・海野町の町並みが確定しました。

真田信之は沼田城の整備にも力を注ぎ、1607(慶長12)、沼田城に5層の天守が建造されました。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らの生活資金は真田信之のもとから出ていましたが、大名生活に慣れていた真田昌幸らにとって満足できる生活ではなく、借金が増え続けることになりました。

上田にいる真田信之からの定額の入金や地元の和歌山藩主である浅野幸長からの贈与だけでは足りず、臨時に必要になったお金の催促や、馬を送って欲しいと嘆願する手紙を数度にわたって真田昌幸は国元の親戚筋に書いています。

真田昌幸は関ヶ原合戦以前に、刀の柄巻が切れやすいことから真田紐を自ら編み出して、貞宗の太刀の柄巻にしたと伝えられています。

九度山に幽閉された真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らは、その真田紐を量産し、京や大坂で売りさばくことで生計を立てていました。

真田昌幸にとって真田紐を売ることは、単に金銭を稼ぐというだけではなく、政治情勢を収集するための情報網を広げていくという目的もあり、九度山にいながらも政治的復活を目指した真田昌幸のしたたかな計算がありました。

浅野幸長は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が九度山へ来る1ヵ月ほど前に、関ヶ原合戦での戦功により甲斐の国から移ってきました。

浅野幸長の父、浅野長政と真田昌幸は同世代で、共に豊臣秀吉の下に仕えていた事もあり、仲が良い付き合いがあった可能性があります。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が国元と書状を取り交わしたり、金の無心をする場合は、徳川氏の機嫌を損ねない範囲で融通を利かせていたと言われています。

真田昌幸が亡くなる直前についての逸話があります。

病の悪化で死期が近づいていたことを悟った真田昌幸は、真田信繁(真田幸村)に「かねてより秘策を考えていたが、これを実行に移さず無駄死にするのは、まことに残念なことだ。」と語りました。

これに対し真田信繁(真田幸村)はその計画を今後のために聴いておきたいと言いました。

しかし、真田昌幸は「とてもお前では無理だ。」と言って計画を打ち明けることはなかった、または計画を打ち明けた後、「計画が優れているか否かではなく、それを真田昌幸が指揮するということが重要であり、将兵が信じて付いて来てくれるのだ。

お前は優れた武将だが、無名であるがゆえ不安に陥る将兵も出てくるので、失敗するだろう。」と言ったとも伝わっています。

徳川家康からの赦免を心待ちにして苦しい幽閉生活を過ごしていた真田昌幸は1611(慶長16)年6月4日、かねてより患っていた病気が悪化、九度山にて逝去しました。
(真田昌幸 享年65歳)