2015/03/13

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 関ヶ原合戦 西軍敗戦 幽閉生活



真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍徳川秀忠隊の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。

西軍の諸大名から没収された領地は、徳川氏譜代大名や東軍に入った外様大名(豊臣恩顧大名)に分け与えられました。

豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の3カ国66万石の一大名になりました。

徳川家康は西軍として上田城に籠城し、将軍徳川秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に切腹を言い渡しました。

真田信幸(真田信之)は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父、本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。

これに徳川秀忠が最も抵抗をしましたが 、本多正信からの勧めもあり徳川家康は助命嘆願を受け入れて、徳川秀忠も榊原康政から説得されて、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)の切腹は回避されました。

徳川家康は1600(慶長5)年12月上旬、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、真田昌幸は近い立場にあった16人の家来、真田信繁(真田幸村)とその妻である利世や子供、家来らと共に上田を出発しました。

真田昌幸の正室である山手殿は九度山へは行かず、上田に残りました。
 
随行した家臣16人は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵と言われています。

真田昌幸の妻である山之手殿は、その後出家して寒松院を名乗り、上田の北に位置する大輪寺で生活し始めました。

幽閉先の高野山についた真田昌幸たちは、真田氏をはじめとした上田小県の人々が菩提所としていた高野山蓮華定院をまずは訪れました。

その後、滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に屋敷を構えて落ち着きました。これは女子は高野山に入れないため、適地を探していたのだと言われています。

一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた真田信幸(真田信之)に対し、幕府は本領である吾妻郡・沼田領に加え、徳川家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。

9万5000石の大名になった真田信幸(真田信之)は徳川氏に忠誠を誓うため、名前で真田昌幸から受け継いだ幸の字(諱)を変えて、信幸を「信之」に改めたのです。

2度にわたって徳川氏の攻撃をかわした上田城は真田昌幸が去った後、本丸や二の丸などの中枢部が徳川氏によって破壊され、真田信之が入城するまでの間は幕府の命令により佐久や諏訪の領主である諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが城番を務めました。

1601(慶長6)年11月、嫁である小松殿から真田昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、真田昌幸は小松殿に礼状を送りました。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。

上田城の中枢部は利用できる状態ではなかったため、真田信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。

城主が城ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。

1601(慶長6)年、この頃、真田信繁(真田幸村)の嫡子である大助(真田幸昌)が九度山で生ました。

1603(慶長8)年2月、徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。

1604(慶長9)7月17日に徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生しました。

1605(慶長10)4月16日、徳川家康は将軍を徳川秀忠が将軍に譲り、全国に徳川幕府の将軍は世襲制であり、豊臣氏への政権委譲はあり得ないことをアピールするなど、徳川氏の政権基盤の安定化が着々と進んでいきました。

1605(慶長10)7月、徳川家康は孫の千姫を豊臣秀頼(65万7000石)と結婚させました。

その頃、徳川家康から赦免されて自由になる日が近いと信じていた真田昌幸でしたが、徳川氏と豊臣氏の対立が続く中ではそれが実現しませんでした。

上田城に入った真田信之は、北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理を1605(慶長10)年から始めました。

1605(慶長11)年には上田城下町の区画整理を完了し、現在に続く原町・海野町の町並みが確定しました。

真田信之は沼田城の整備にも力を注ぎ、1607(慶長12)、沼田城に5層の天守が建造されました。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らの生活資金は真田信之のもとから出ていましたが、大名生活に慣れていた真田昌幸らにとって満足できる生活ではなく、借金が増え続けることになりました。

上田にいる真田信之からの定額の入金や地元の和歌山藩主である浅野幸長からの贈与だけでは足りず、臨時に必要になったお金の催促や、馬を送って欲しいと嘆願する手紙を数度にわたって真田昌幸は国元の親戚筋に書いています。

真田昌幸は関ヶ原合戦以前に、刀の柄巻が切れやすいことから真田紐を自ら編み出して、貞宗の太刀の柄巻にしたと伝えられています。

九度山に幽閉された真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らは、その真田紐を量産し、京や大坂で売りさばくことで生計を立てていました。

真田昌幸にとって真田紐を売ることは、単に金銭を稼ぐというだけではなく、政治情勢を収集するための情報網を広げていくという目的もあり、九度山にいながらも政治的復活を目指した真田昌幸のしたたかな計算がありました。

浅野幸長は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が九度山へ来る1ヵ月ほど前に、関ヶ原合戦での戦功により甲斐の国から移ってきました。

浅野幸長の父、浅野長政と真田昌幸は同世代で、共に豊臣秀吉の下に仕えていた事もあり、仲が良い付き合いがあった可能性があります。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が国元と書状を取り交わしたり、金の無心をする場合は、徳川氏の機嫌を損ねない範囲で融通を利かせていたと言われています。

真田昌幸が亡くなる直前についての逸話があります。

病の悪化で死期が近づいていたことを悟った真田昌幸は、真田信繁(真田幸村)に「かねてより秘策を考えていたが、これを実行に移さず無駄死にするのは、まことに残念なことだ。」と語りました。

これに対し真田信繁(真田幸村)はその計画を今後のために聴いておきたいと言いました。

しかし、真田昌幸は「とてもお前では無理だ。」と言って計画を打ち明けることはなかった、または計画を打ち明けた後、「計画が優れているか否かではなく、それを真田昌幸が指揮するということが重要であり、将兵が信じて付いて来てくれるのだ。

お前は優れた武将だが、無名であるがゆえ不安に陥る将兵も出てくるので、失敗するだろう。」と言ったとも伝わっています。

徳川家康からの赦免を心待ちにして苦しい幽閉生活を過ごしていた真田昌幸は1611(慶長16)年6月4日、かねてより患っていた病気が悪化、九度山にて逝去しました。
(真田昌幸 享年65歳)

2015/03/12

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 関ヶ原合戦 上田城籠城戦



1600(慶長5)年7月21日、大坂から江戸に着いた徳川家康は、上杉氏を牽制するために江戸を出発し北上しました。

7月23日、西軍に加わることを決めた真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発しました。

真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は犬伏から上田へ帰る途中で沼田城に立ち寄ろうとしましたが、真田信幸(真田信之)の妻である小松殿は2人を城に入れるとそのまま占領されてしまうのではと危惧し、入城を拒否されました。

真田信幸(真田信之)は滞在する宇都宮から小松殿に対して「父弟が沼田に寄った時は城内に入れないように」という指示を2人が到着する前に出していた可能性があります。

沼田城への入城を拒否された真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、武力で沼田城を攻略することなく、上田へ帰りました。この時、真田信繁(真田幸村)が腹いせに沼田城下へ火を放とうとしたところ、真田昌幸に止められたという話も伝わっています。

西軍にとって、沼田は大坂から上田、さらに会津までの連絡中継点として重要な場所でした。

徳川家康は上杉討伐の先発隊である徳川秀忠と合流し7月24日に下野の小山に着陣しました。

真田信幸(真田信之)は着陣した徳川家康に拝謁し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である真田信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓いました。

 この時、徳川家康は東軍に入った真田信幸(真田信之)を大いに褒め称えたと言われています。

会津や越後などの監視をする為に沼田へ戻った真田信幸(真田信之)は、4歳だった真田信政を人質として江戸に送りました。

徳川家康は7月27日付けの書状で、真田昌幸の領地である小県郡を真田信幸(真田信之)に与えることを約束しました。

7月25日に徳川氏率いる東軍は、石田三成を中心とする西軍に対して合戦を挑むことを小山にて話し合い、福島政則、池田輝政らが先発隊として西に兵を進みはじめました。

徳川家康は江戸に戻って諸大名に向かって自分へ味方するように連絡を取りつつ、周囲の状況を伺っていました。

このことは、徳川家康が東軍である福島政則らかつて秀吉恩顧であった大名を完全に信頼しきっていた訳ではなく、大坂を出発した時から上杉や伊達の行動を注意深く見守りつつ、味方の中にも分裂の要素が多分にあった事を物語っています。

東軍が、上杉氏から背後を突かれて大損害が出る可能性は、伊達氏が東軍に入ったことで、ほぼ解消され、東北では伊達氏と上杉氏が対立する構図が固まりました。

西軍として行動するために上田へ戻った真田昌幸は、石田三成に対して挙兵について事前に相談がなかったことを石田三成に手紙で怒り、さらに8月に入った時点でも石田三成西軍へ正式に加わるという返事を真田昌幸は出しませんでした。

石田三成を焦らす事で西軍での真田氏の重要性を強調するためだったようで、真田信幸(真田信之)が東軍になったことも8月に入るまで西軍には伝えていませんでした。

その間に石田三成は真田昌幸を西軍に引き入れるため、何度も真田昌幸宛に書状を書いています。

7月30日付の書状で石田三成は、今回の決起の事を事前に真田昌幸へ相談しなかったことを詫び、8月10日付では信州のみならず甲斐までも真田昌幸に任せることを西軍幹部で決めた事を書くなど、石田三成の真田昌幸に対する気遣いは日に日に高まっていきました。

8月10日、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備えました。

8月21日、真田信幸(真田信之)は会津と上田の中間に位置する沼田で国境の警備を指揮するために、沼田に戻るため出発しました。

福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の活躍を知った徳川家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた徳川秀忠軍に西へ向かうように命令しました。

徳川秀忠は家康の後継者であり、事実上の徳川方本隊であったと思われます。

徳川秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸、真田信繁(真田幸村)を征伐をすることになりました。

この時、沼田にいた真田信幸(真田信之)にも討伐に参加するように命令が出ました。

徳川秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、本多正信、榊原康政、大久保忠隣、大久保忠常、本多忠政、酒井家次、奥平家昌、菅沼忠政、牧野康成、戸田一西、小笠原忠成、石川康長、諏訪頼水、西尾吉次らに、信濃の外様大名である森忠政、仙石秀久、真田信幸(真田信之)らも加わりました。

徳川家康から徳川秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐について反対しましたが、これを徳川秀忠は聞き入れなかったと言われています。

8月23日、福島政則・池田輝政ら東軍先発隊が岐阜城を落としました。

そして、先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、徳川家康が来るのを待ちました。

8月24日、徳川秀忠は沼田で警備していた真田信幸(真田信之)に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令し、徳川秀忠隊約38000人の兵は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)がいる上田城を目指して宇都宮を出発し、中山道を西へ進み、8月28日には松井田に到達しました。

同じ日、東軍先発隊は岐阜城を陥落させ、さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも東軍は勝利しました。

福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の快進撃や西軍への内部工作の進展、そして上杉と伊達が動かない事など、自分に有利な状況が整ったと感じた徳川家康は9月1日になって、ついに江戸城から約30000人の兵を率いて東海道を西へ進み始めました。

9月1日、徳川秀忠隊は碓氷峠を越え軽井沢に着き、9月2日には道案内役の真田信幸(真田信之)と共に小諸城に着陣しました。

真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告しました。

本多忠政は小松殿の兄であり、真田信幸(真田信之)にとって義兄でした。
信濃国分寺で真田方と徳川方による会議が行われました。

9月3日、上田城で籠城している真田昌幸が真田信幸(真田信之)を介して本多秀忠に降伏してきましたが、翌日9月4日に真田昌幸の降伏は嘘であることが判明し、時間稼ぎであることを知った徳川秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じました。

徳川秀忠が率いる東軍本隊と真田昌幸と真田信繁(真田幸村)による第二次上田合戦が始まりました。 

攻める徳川秀忠隊の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われています。

真田信幸(真田信之)は徳川秀忠から真田信繁(真田幸村)が守る戸石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面でしたが、9月5日に兄弟対決を嫌った真田信繁(真田幸村)が戸石城から上田城へ退却し、それは回避されました。

真田信幸(真田信之)はまず、信繁(幸村)真田信繁(真田幸村)が退却した戸石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて戸石城に入りました。

これに伴い徳川秀忠は味方である真田信幸(真田信之)が入った戸石城を背にして、上田城と向かい合う位置にある染屋に陣を構えました。

9月6日徳川秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。

上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきました。

真田方の兵を追って、刈田をしていた牧野康成の嫡男である牧野忠成の部隊が、挑発に乗って上田城の城壁近くまで押し寄せました。

この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めました。

上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る徳川秀忠隊はこの挑発に乗ってしまい、上官が攻撃を制止してももはや止めることはできませんでした。

徳川秀忠軍は上田城の周りへ押しかけましたが、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出しました。

真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は徳川方を挑発する様に40~50騎を率いて上田城外へ偵察に出ました。

これを知った徳川秀忠は依田肥前守の鉄砲隊に攻撃させ、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は交戦せずに城内へ引き揚げました。

真田氏の策略によって徳川方は混乱に陥って敗退し、戸石城までも真田軍に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられました。

人数で圧倒的有利な状況であるはずの徳川方が混乱し、敗走する部隊が出る中で徳川方の槍の達人7人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がつきました。

徳川方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めました。

本多正信は軍令違反をした部隊を厳しく処分し、大久保忠隣の旗奉行である杉浦文勝、牧野康成の旗奉行である贄掃部(にえ かもん)に切腹を命じました。

杉浦文勝は命令に従い自害しましたが、贄掃部は牧野康成から逃亡を黙認されました。

これにより牧野康成は軍列から外され、後にこの責任を問われて領地を没収されました。

9月7日になると徳川秀忠は上田攻撃を中止し、小県郡から小諸城に退却しました。

真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、徳川秀忠隊は2つに割れました。

その後も再度の大規模な攻撃を検討しましたが断念し、9月11日(8日説も有)、石田三成側との本戦に間に合わなくなることを危惧した徳川秀忠は真田氏討伐をあきらめ、西に向けて小諸城を出発しました。

徳川秀忠軍は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かいましたが、仙石秀久・石川康長・日根野高吉・森忠政・真田信幸(真田信之)らは上田城への押さえとして小諸城に残りました。

徳川方は徳川家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に押し寄せて一斉射撃で叩かれるという同じ失敗を犯したのです。

9月13日、徳川秀忠隊は諏訪に到着しました。

9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する「関ヶ原合戦」が起こりました。

真田信繁(真田幸村)の妻、利世の父、大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。

9月16日、徳川秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着しました。

9月17日、佐和山城が陥落し、裏切りが続出した石田三成が率いる西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れました。

真田昌幸、五女の夫である宇田頼次は父、宇田頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦しましたが、戦死しました。

この時点で、徳川秀忠隊は関ヶ原から遠く離れた木曽にいました。真田討伐に手こずり失敗した徳川秀忠は結果として関ヶ原合戦に間に合いませんでした。

9月19日、徳川秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着しました。

徳川秀忠が大津城にいる徳川家康隊に合流したのは9月20日でした。

徳川秀忠は何日か徳川家康に面会してもらえなかったと伝えられています。

2015/03/11

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 豊臣秀吉死後~関ヶ原合戦前

豊臣秀吉の病死後、真田氏は徳川家康に従って行動をとっていました。

1600(慶長5)3月、徳川家康が伏見から大坂に移ると、それに伴い真田氏も伏見から大坂に移りました。
多くの大名に対して徳川家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊しました。
五大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を深めていきました。

上杉景勝は家康に反抗する姿勢を示し、領地である会津に戻り籠城に近い状況になりました。

6月16日、五大老の中で徳川家康の上洛命令に従わなかった上杉景勝を討伐するために、徳川家康は大坂から関東へ約6万の大軍を率いて向かいました。

徳川家康は自分が大坂から離れると反徳川勢力である石田三成が挙兵することを確信していたようで、徳川軍は反徳川の勢力が兵を挙げるかどうか様子をうかがいながら東に進み、豊臣秀吉恩顧の大名であった福島正則・黒田長政・細川忠興・堀尾忠氏・浅野幸長・池田輝政らも徳川家康に同調し、江戸に集まり出しました。

この頃、石田三成は豊臣秀吉恩顧の大名に対して徳川討伐の挙兵に協力するよう要請をしています。会津の上杉氏と西国の大名で挟み撃ちにする意図がありました。

7月に入ると、石田三成は佐和山城から大坂城へ移り、かつての五奉行衆に名を連ねていた増田長盛・長束正家・前田玄以らと共に豊臣秀頼を擁立して兵をあげました。しかし、増田長盛は徳川方のスパイだったので、西軍の情報は筒抜けだったようです。

7月19日、西軍の宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋らは家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。

真田信幸(真田信之)は江戸まで兵を率いて将軍徳川秀忠のもとへ参陣し、1600(慶長5)年7月19日、他の徳川家臣とともに徳川本隊として江戸を出発しました。

7月20日、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は下野の犬伏宿に着陣し、徳川秀忠隊も宇都宮に着陣しました。

7月21日、犬伏宿にて待機していた真田昌幸へ石田三成から7月17日付の密書が届きました。

その手紙は豊臣氏の奉行である長束正家(なつか まさいえ)、増田長盛(ました ながもり)、前田玄以らの連名があり、豊臣家をないがしろにする徳川家康を討伐するために西軍へ加わって欲しいというもので、密書を届けた使者からは真田昌幸の娘婿である宇田頼次と真田信繁(真田幸村)の義父である大谷吉継が西軍に入ったということを聴きました。

真田昌幸は真田信繁(真田幸村)に、義父である大谷吉継が西軍に入ったことを伝えたと思われます。

これを受けて真田昌幸は、徳川秀忠本陣付近にいた真田信幸(真田信之)を呼び寄せて、犬伏のとある民家の離れに呼び、真田父子3人で今後の行動について話し合いました。

この時、話し合いが長くなっていることを心配した家臣が様子を見に行ったところ、それに気が付いた真田昌幸は「誰も来るなと命じたはずだ。」と怒鳴り下駄を投げつけ、その下駄が顔に当たって家臣の歯が折れてしまったと言う逸話が伝わっています。

真田父子3人で話し合った結果、真田昌幸は過去の徳川家康に対して信頼感を持つことができず豊臣方になることを選択し、長男、真田信幸(真田信之)は正室が本多忠勝の娘で徳川家康の養女であることや、徳川氏の家臣として沼田領の領主になったという経緯もあったため、徳川方につきました。

次男、真田信繁(真田幸村)は豊臣氏の家臣であり、正室である竹林院の父である大谷吉継が石田三成からの説得で豊臣方になったことともあり、父、真田昌幸に従いました。

その結果、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は豊臣方へ、真田信幸(真田信之)は徳川方へと別れて、それぞれ西軍と東軍に入り、親子で敵対する陣営に別れてでも、武士としてそれぞれの立場を保ちつつ真田氏の家系と領地は守らねばならないと判断したのです。

真田氏が徳川方と豊臣方の東西に別れたことを詠った川柳があります。
「東西にみごろを分ける真田縞 銭づかい上手にしたは昌幸 たね銭が関東方に残るなり」

2015/03/04

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura)  誕生~豊臣家臣時代






















真田信繁は1568(永禄11)年に武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の次男として生まれました。
母親は山手殿(寒松院)です。
幼名は源二郎または弁丸でした。

真田昌幸は武田氏滅亡後は織田氏の家臣になりましたが、すぐに本能寺の変で織田信長が討たれて、この頃には徳川家康の家臣となっていました。

徳川家康は豊臣秀吉との対立に専念するために、それまで敵対していた北条氏と和議を結ぶため、真田昌幸に沼田を北条氏に渡すように命令しました。

真田昌幸は武田氏の時代に真田幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、この命令には従わず徳川氏と絶縁しました。

徳川氏と北条氏の駆け引きで領地を取られることを避けたい真田昌幸は、豊臣秀吉と和を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。

上杉氏にとって、越後の目と鼻の先で武田方の最前線で勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは徳川氏に対する牽制の意味もありました。

8月、真田昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために真田信繁(真田幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19歳)

真田信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。

この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し上杉景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を真田信繁(幸村)に分け与えました。

真田信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は真田信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、上杉景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。

出陣は許可されませんでしたが、真田信繁(真田幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。

この頃、真田信繁(真田幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には真田信繁(真田幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。

真田昌幸は第一次上田合戦の最中、大谷吉隆を通じて秀吉の家臣となりました。

1586(天正14)年5月、上杉景勝が本拠地である春日山を出て上洛をしました。

真田昌幸は上杉景勝が留守になったこの時を狙って、真田信繁(真田幸村)や上杉氏指揮下にあった真田隊を上田に呼び戻しました。

徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した真田昌幸は真田信繁(真田幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。

これを知った上杉景勝は激怒して豊臣秀吉に真田信繁(真田幸村)を引き渡すよう強く要求しました。

この頃、真田信繁(真田幸村)は真田氏家臣である堀田作兵衛興重の妹(この時は興重の養女)と結婚し、長女である於菊を産ませています。

1590(天正18)年2月、豊臣秀吉は小田原征伐に出発しました。(信繁24歳)

この戦いに真田昌幸と真田信幸(真田信之)は、前田利家と上杉景勝の連合軍の先鋒として参戦しました。

豊臣秀吉のお付きとして真田信繁(真田幸村)は、小田原へ随行しました。

この時に、真田信繁(幸村)が豊臣秀吉のもとから実家へ戻り、真田昌幸や真田信幸(真田信之)とともに北条討伐での松井田城・箕輪城攻略に参戦したという説もあります。

北条討伐が真田信繁(真田幸村)の初陣でした。

1594(文禄3)年頃、信繁は利世(大谷吉継の娘)と結婚しました。

1594(文禄3)年11月、真田信繁(真田幸村)は兄(真田信之)と共に官職が与えられ、従五位下左衛門佐になり、豊臣姓の名乗りを許されました。

朝鮮出兵では豊臣氏の組織内部での雑務をしていました。

1598(慶長3)年8月13日、豊臣秀吉が伏見城で病死しました。(享年62歳)



2015/03/02

真田 清鏡(sanada kiyoaki)

誕生 1541年(天文10年)? 死没1599年(慶長4年)? 58歳? 

父母 父、真田幸隆 母、羽尾幸全の娘?

墓 羽黒山奥之院の荒沢寺 羽黒山麓の金剛寺

真田幸隆が領地を追われ、上野亡命中の天文10年(1541年)、真田幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残っている。

真実であれば、真田昌輝の兄、真田信綱の弟になるため、本当は真田幸隆の次男となる。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となったようである。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置に際し、不満を持った南部一門の九戸政実・実親兄弟が南部宗家に対して興した九戸政実の乱に際しては、四戸家の南部利直を支援した。

その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得た。しかし慶長4年(1599年)に南部家と南部城中に宿泊時にささいな行き違いに憤って切腹。

城門に腸を叩きつけたと言う。

醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継ぎ、南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡の霊を祀ったと言われる。清鏡の墓は羽黒山奥之院の荒沢寺と羽黒山麓の金剛寺院にあると言う。

金井 高勝(kanai takakatsu)

誕生 不明 死没 1606年8月10日(慶長11年7月7日)

別名 真田信春 

法号 高勝寺殿龍顔宗白大居士

墓 龍顔寺

父、真田幸隆 母、不明

妻 不明

子 不明

金井高勝は真田幸隆の5男(4男?)で人物像、経歴は不明です。

真田信春として戦国の世を乗り越えましたが、いつからか農民になり金井高勝を名乗りました。
龍顔寺の西方に二重の堀跡が残っている居館跡があり、そこには真田宮内大神が祀られています。

金井高勝の甥である真田信之は、高勝が亡くなった翌年である1607(慶長)年6月26日付の寄進状で、金井高勝の冥福を祈って3貫文を高勝寺に寄進しています。