2015/03/13

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 関ヶ原合戦 西軍敗戦 幽閉生活



真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍徳川秀忠隊の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。

西軍の諸大名から没収された領地は、徳川氏譜代大名や東軍に入った外様大名(豊臣恩顧大名)に分け与えられました。

豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の3カ国66万石の一大名になりました。

徳川家康は西軍として上田城に籠城し、将軍徳川秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に切腹を言い渡しました。

真田信幸(真田信之)は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父、本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。

これに徳川秀忠が最も抵抗をしましたが 、本多正信からの勧めもあり徳川家康は助命嘆願を受け入れて、徳川秀忠も榊原康政から説得されて、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)の切腹は回避されました。

徳川家康は1600(慶長5)年12月上旬、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、真田昌幸は近い立場にあった16人の家来、真田信繁(真田幸村)とその妻である利世や子供、家来らと共に上田を出発しました。

真田昌幸の正室である山手殿は九度山へは行かず、上田に残りました。
 
随行した家臣16人は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵と言われています。

真田昌幸の妻である山之手殿は、その後出家して寒松院を名乗り、上田の北に位置する大輪寺で生活し始めました。

幽閉先の高野山についた真田昌幸たちは、真田氏をはじめとした上田小県の人々が菩提所としていた高野山蓮華定院をまずは訪れました。

その後、滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に屋敷を構えて落ち着きました。これは女子は高野山に入れないため、適地を探していたのだと言われています。

一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた真田信幸(真田信之)に対し、幕府は本領である吾妻郡・沼田領に加え、徳川家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。

9万5000石の大名になった真田信幸(真田信之)は徳川氏に忠誠を誓うため、名前で真田昌幸から受け継いだ幸の字(諱)を変えて、信幸を「信之」に改めたのです。

2度にわたって徳川氏の攻撃をかわした上田城は真田昌幸が去った後、本丸や二の丸などの中枢部が徳川氏によって破壊され、真田信之が入城するまでの間は幕府の命令により佐久や諏訪の領主である諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが城番を務めました。

1601(慶長6)年11月、嫁である小松殿から真田昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、真田昌幸は小松殿に礼状を送りました。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。

上田城の中枢部は利用できる状態ではなかったため、真田信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。

城主が城ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。

1601(慶長6)年、この頃、真田信繁(真田幸村)の嫡子である大助(真田幸昌)が九度山で生ました。

1603(慶長8)年2月、徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。

1604(慶長9)7月17日に徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生しました。

1605(慶長10)4月16日、徳川家康は将軍を徳川秀忠が将軍に譲り、全国に徳川幕府の将軍は世襲制であり、豊臣氏への政権委譲はあり得ないことをアピールするなど、徳川氏の政権基盤の安定化が着々と進んでいきました。

1605(慶長10)7月、徳川家康は孫の千姫を豊臣秀頼(65万7000石)と結婚させました。

その頃、徳川家康から赦免されて自由になる日が近いと信じていた真田昌幸でしたが、徳川氏と豊臣氏の対立が続く中ではそれが実現しませんでした。

上田城に入った真田信之は、北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理を1605(慶長10)年から始めました。

1605(慶長11)年には上田城下町の区画整理を完了し、現在に続く原町・海野町の町並みが確定しました。

真田信之は沼田城の整備にも力を注ぎ、1607(慶長12)、沼田城に5層の天守が建造されました。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らの生活資金は真田信之のもとから出ていましたが、大名生活に慣れていた真田昌幸らにとって満足できる生活ではなく、借金が増え続けることになりました。

上田にいる真田信之からの定額の入金や地元の和歌山藩主である浅野幸長からの贈与だけでは足りず、臨時に必要になったお金の催促や、馬を送って欲しいと嘆願する手紙を数度にわたって真田昌幸は国元の親戚筋に書いています。

真田昌幸は関ヶ原合戦以前に、刀の柄巻が切れやすいことから真田紐を自ら編み出して、貞宗の太刀の柄巻にしたと伝えられています。

九度山に幽閉された真田昌幸、真田信繁(真田幸村)らは、その真田紐を量産し、京や大坂で売りさばくことで生計を立てていました。

真田昌幸にとって真田紐を売ることは、単に金銭を稼ぐというだけではなく、政治情勢を収集するための情報網を広げていくという目的もあり、九度山にいながらも政治的復活を目指した真田昌幸のしたたかな計算がありました。

浅野幸長は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が九度山へ来る1ヵ月ほど前に、関ヶ原合戦での戦功により甲斐の国から移ってきました。

浅野幸長の父、浅野長政と真田昌幸は同世代で、共に豊臣秀吉の下に仕えていた事もあり、仲が良い付き合いがあった可能性があります。

真田昌幸、真田信繁(真田幸村)が国元と書状を取り交わしたり、金の無心をする場合は、徳川氏の機嫌を損ねない範囲で融通を利かせていたと言われています。

真田昌幸が亡くなる直前についての逸話があります。

病の悪化で死期が近づいていたことを悟った真田昌幸は、真田信繁(真田幸村)に「かねてより秘策を考えていたが、これを実行に移さず無駄死にするのは、まことに残念なことだ。」と語りました。

これに対し真田信繁(真田幸村)はその計画を今後のために聴いておきたいと言いました。

しかし、真田昌幸は「とてもお前では無理だ。」と言って計画を打ち明けることはなかった、または計画を打ち明けた後、「計画が優れているか否かではなく、それを真田昌幸が指揮するということが重要であり、将兵が信じて付いて来てくれるのだ。

お前は優れた武将だが、無名であるがゆえ不安に陥る将兵も出てくるので、失敗するだろう。」と言ったとも伝わっています。

徳川家康からの赦免を心待ちにして苦しい幽閉生活を過ごしていた真田昌幸は1611(慶長16)年6月4日、かねてより患っていた病気が悪化、九度山にて逝去しました。
(真田昌幸 享年65歳)

2015/03/12

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 関ヶ原合戦 上田城籠城戦



1600(慶長5)年7月21日、大坂から江戸に着いた徳川家康は、上杉氏を牽制するために江戸を出発し北上しました。

7月23日、西軍に加わることを決めた真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発しました。

真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は犬伏から上田へ帰る途中で沼田城に立ち寄ろうとしましたが、真田信幸(真田信之)の妻である小松殿は2人を城に入れるとそのまま占領されてしまうのではと危惧し、入城を拒否されました。

真田信幸(真田信之)は滞在する宇都宮から小松殿に対して「父弟が沼田に寄った時は城内に入れないように」という指示を2人が到着する前に出していた可能性があります。

沼田城への入城を拒否された真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、武力で沼田城を攻略することなく、上田へ帰りました。この時、真田信繁(真田幸村)が腹いせに沼田城下へ火を放とうとしたところ、真田昌幸に止められたという話も伝わっています。

西軍にとって、沼田は大坂から上田、さらに会津までの連絡中継点として重要な場所でした。

徳川家康は上杉討伐の先発隊である徳川秀忠と合流し7月24日に下野の小山に着陣しました。

真田信幸(真田信之)は着陣した徳川家康に拝謁し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である真田信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓いました。

 この時、徳川家康は東軍に入った真田信幸(真田信之)を大いに褒め称えたと言われています。

会津や越後などの監視をする為に沼田へ戻った真田信幸(真田信之)は、4歳だった真田信政を人質として江戸に送りました。

徳川家康は7月27日付けの書状で、真田昌幸の領地である小県郡を真田信幸(真田信之)に与えることを約束しました。

7月25日に徳川氏率いる東軍は、石田三成を中心とする西軍に対して合戦を挑むことを小山にて話し合い、福島政則、池田輝政らが先発隊として西に兵を進みはじめました。

徳川家康は江戸に戻って諸大名に向かって自分へ味方するように連絡を取りつつ、周囲の状況を伺っていました。

このことは、徳川家康が東軍である福島政則らかつて秀吉恩顧であった大名を完全に信頼しきっていた訳ではなく、大坂を出発した時から上杉や伊達の行動を注意深く見守りつつ、味方の中にも分裂の要素が多分にあった事を物語っています。

東軍が、上杉氏から背後を突かれて大損害が出る可能性は、伊達氏が東軍に入ったことで、ほぼ解消され、東北では伊達氏と上杉氏が対立する構図が固まりました。

西軍として行動するために上田へ戻った真田昌幸は、石田三成に対して挙兵について事前に相談がなかったことを石田三成に手紙で怒り、さらに8月に入った時点でも石田三成西軍へ正式に加わるという返事を真田昌幸は出しませんでした。

石田三成を焦らす事で西軍での真田氏の重要性を強調するためだったようで、真田信幸(真田信之)が東軍になったことも8月に入るまで西軍には伝えていませんでした。

その間に石田三成は真田昌幸を西軍に引き入れるため、何度も真田昌幸宛に書状を書いています。

7月30日付の書状で石田三成は、今回の決起の事を事前に真田昌幸へ相談しなかったことを詫び、8月10日付では信州のみならず甲斐までも真田昌幸に任せることを西軍幹部で決めた事を書くなど、石田三成の真田昌幸に対する気遣いは日に日に高まっていきました。

8月10日、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備えました。

8月21日、真田信幸(真田信之)は会津と上田の中間に位置する沼田で国境の警備を指揮するために、沼田に戻るため出発しました。

福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の活躍を知った徳川家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた徳川秀忠軍に西へ向かうように命令しました。

徳川秀忠は家康の後継者であり、事実上の徳川方本隊であったと思われます。

徳川秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸、真田信繁(真田幸村)を征伐をすることになりました。

この時、沼田にいた真田信幸(真田信之)にも討伐に参加するように命令が出ました。

徳川秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、本多正信、榊原康政、大久保忠隣、大久保忠常、本多忠政、酒井家次、奥平家昌、菅沼忠政、牧野康成、戸田一西、小笠原忠成、石川康長、諏訪頼水、西尾吉次らに、信濃の外様大名である森忠政、仙石秀久、真田信幸(真田信之)らも加わりました。

徳川家康から徳川秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐について反対しましたが、これを徳川秀忠は聞き入れなかったと言われています。

8月23日、福島政則・池田輝政ら東軍先発隊が岐阜城を落としました。

そして、先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、徳川家康が来るのを待ちました。

8月24日、徳川秀忠は沼田で警備していた真田信幸(真田信之)に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令し、徳川秀忠隊約38000人の兵は真田昌幸、真田信繁(真田幸村)がいる上田城を目指して宇都宮を出発し、中山道を西へ進み、8月28日には松井田に到達しました。

同じ日、東軍先発隊は岐阜城を陥落させ、さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも東軍は勝利しました。

福島政則、池田輝政らの東軍先発隊の快進撃や西軍への内部工作の進展、そして上杉と伊達が動かない事など、自分に有利な状況が整ったと感じた徳川家康は9月1日になって、ついに江戸城から約30000人の兵を率いて東海道を西へ進み始めました。

9月1日、徳川秀忠隊は碓氷峠を越え軽井沢に着き、9月2日には道案内役の真田信幸(真田信之)と共に小諸城に着陣しました。

真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告しました。

本多忠政は小松殿の兄であり、真田信幸(真田信之)にとって義兄でした。
信濃国分寺で真田方と徳川方による会議が行われました。

9月3日、上田城で籠城している真田昌幸が真田信幸(真田信之)を介して本多秀忠に降伏してきましたが、翌日9月4日に真田昌幸の降伏は嘘であることが判明し、時間稼ぎであることを知った徳川秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じました。

徳川秀忠が率いる東軍本隊と真田昌幸と真田信繁(真田幸村)による第二次上田合戦が始まりました。 

攻める徳川秀忠隊の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われています。

真田信幸(真田信之)は徳川秀忠から真田信繁(真田幸村)が守る戸石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面でしたが、9月5日に兄弟対決を嫌った真田信繁(真田幸村)が戸石城から上田城へ退却し、それは回避されました。

真田信幸(真田信之)はまず、信繁(幸村)真田信繁(真田幸村)が退却した戸石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて戸石城に入りました。

これに伴い徳川秀忠は味方である真田信幸(真田信之)が入った戸石城を背にして、上田城と向かい合う位置にある染屋に陣を構えました。

9月6日徳川秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。

上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきました。

真田方の兵を追って、刈田をしていた牧野康成の嫡男である牧野忠成の部隊が、挑発に乗って上田城の城壁近くまで押し寄せました。

この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めました。

上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る徳川秀忠隊はこの挑発に乗ってしまい、上官が攻撃を制止してももはや止めることはできませんでした。

徳川秀忠軍は上田城の周りへ押しかけましたが、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出しました。

真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は徳川方を挑発する様に40~50騎を率いて上田城外へ偵察に出ました。

これを知った徳川秀忠は依田肥前守の鉄砲隊に攻撃させ、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は交戦せずに城内へ引き揚げました。

真田氏の策略によって徳川方は混乱に陥って敗退し、戸石城までも真田軍に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられました。

人数で圧倒的有利な状況であるはずの徳川方が混乱し、敗走する部隊が出る中で徳川方の槍の達人7人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がつきました。

徳川方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めました。

本多正信は軍令違反をした部隊を厳しく処分し、大久保忠隣の旗奉行である杉浦文勝、牧野康成の旗奉行である贄掃部(にえ かもん)に切腹を命じました。

杉浦文勝は命令に従い自害しましたが、贄掃部は牧野康成から逃亡を黙認されました。

これにより牧野康成は軍列から外され、後にこの責任を問われて領地を没収されました。

9月7日になると徳川秀忠は上田攻撃を中止し、小県郡から小諸城に退却しました。

真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、徳川秀忠隊は2つに割れました。

その後も再度の大規模な攻撃を検討しましたが断念し、9月11日(8日説も有)、石田三成側との本戦に間に合わなくなることを危惧した徳川秀忠は真田氏討伐をあきらめ、西に向けて小諸城を出発しました。

徳川秀忠軍は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かいましたが、仙石秀久・石川康長・日根野高吉・森忠政・真田信幸(真田信之)らは上田城への押さえとして小諸城に残りました。

徳川方は徳川家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に押し寄せて一斉射撃で叩かれるという同じ失敗を犯したのです。

9月13日、徳川秀忠隊は諏訪に到着しました。

9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する「関ヶ原合戦」が起こりました。

真田信繁(真田幸村)の妻、利世の父、大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。

9月16日、徳川秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着しました。

9月17日、佐和山城が陥落し、裏切りが続出した石田三成が率いる西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れました。

真田昌幸、五女の夫である宇田頼次は父、宇田頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦しましたが、戦死しました。

この時点で、徳川秀忠隊は関ヶ原から遠く離れた木曽にいました。真田討伐に手こずり失敗した徳川秀忠は結果として関ヶ原合戦に間に合いませんでした。

9月19日、徳川秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着しました。

徳川秀忠が大津城にいる徳川家康隊に合流したのは9月20日でした。

徳川秀忠は何日か徳川家康に面会してもらえなかったと伝えられています。

2015/03/11

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura) 豊臣秀吉死後~関ヶ原合戦前

豊臣秀吉の病死後、真田氏は徳川家康に従って行動をとっていました。

1600(慶長5)3月、徳川家康が伏見から大坂に移ると、それに伴い真田氏も伏見から大坂に移りました。
多くの大名に対して徳川家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊しました。
五大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を深めていきました。

上杉景勝は家康に反抗する姿勢を示し、領地である会津に戻り籠城に近い状況になりました。

6月16日、五大老の中で徳川家康の上洛命令に従わなかった上杉景勝を討伐するために、徳川家康は大坂から関東へ約6万の大軍を率いて向かいました。

徳川家康は自分が大坂から離れると反徳川勢力である石田三成が挙兵することを確信していたようで、徳川軍は反徳川の勢力が兵を挙げるかどうか様子をうかがいながら東に進み、豊臣秀吉恩顧の大名であった福島正則・黒田長政・細川忠興・堀尾忠氏・浅野幸長・池田輝政らも徳川家康に同調し、江戸に集まり出しました。

この頃、石田三成は豊臣秀吉恩顧の大名に対して徳川討伐の挙兵に協力するよう要請をしています。会津の上杉氏と西国の大名で挟み撃ちにする意図がありました。

7月に入ると、石田三成は佐和山城から大坂城へ移り、かつての五奉行衆に名を連ねていた増田長盛・長束正家・前田玄以らと共に豊臣秀頼を擁立して兵をあげました。しかし、増田長盛は徳川方のスパイだったので、西軍の情報は筒抜けだったようです。

7月19日、西軍の宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋らは家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。

真田信幸(真田信之)は江戸まで兵を率いて将軍徳川秀忠のもとへ参陣し、1600(慶長5)年7月19日、他の徳川家臣とともに徳川本隊として江戸を出発しました。

7月20日、真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は下野の犬伏宿に着陣し、徳川秀忠隊も宇都宮に着陣しました。

7月21日、犬伏宿にて待機していた真田昌幸へ石田三成から7月17日付の密書が届きました。

その手紙は豊臣氏の奉行である長束正家(なつか まさいえ)、増田長盛(ました ながもり)、前田玄以らの連名があり、豊臣家をないがしろにする徳川家康を討伐するために西軍へ加わって欲しいというもので、密書を届けた使者からは真田昌幸の娘婿である宇田頼次と真田信繁(真田幸村)の義父である大谷吉継が西軍に入ったということを聴きました。

真田昌幸は真田信繁(真田幸村)に、義父である大谷吉継が西軍に入ったことを伝えたと思われます。

これを受けて真田昌幸は、徳川秀忠本陣付近にいた真田信幸(真田信之)を呼び寄せて、犬伏のとある民家の離れに呼び、真田父子3人で今後の行動について話し合いました。

この時、話し合いが長くなっていることを心配した家臣が様子を見に行ったところ、それに気が付いた真田昌幸は「誰も来るなと命じたはずだ。」と怒鳴り下駄を投げつけ、その下駄が顔に当たって家臣の歯が折れてしまったと言う逸話が伝わっています。

真田父子3人で話し合った結果、真田昌幸は過去の徳川家康に対して信頼感を持つことができず豊臣方になることを選択し、長男、真田信幸(真田信之)は正室が本多忠勝の娘で徳川家康の養女であることや、徳川氏の家臣として沼田領の領主になったという経緯もあったため、徳川方につきました。

次男、真田信繁(真田幸村)は豊臣氏の家臣であり、正室である竹林院の父である大谷吉継が石田三成からの説得で豊臣方になったことともあり、父、真田昌幸に従いました。

その結果、真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は豊臣方へ、真田信幸(真田信之)は徳川方へと別れて、それぞれ西軍と東軍に入り、親子で敵対する陣営に別れてでも、武士としてそれぞれの立場を保ちつつ真田氏の家系と領地は守らねばならないと判断したのです。

真田氏が徳川方と豊臣方の東西に別れたことを詠った川柳があります。
「東西にみごろを分ける真田縞 銭づかい上手にしたは昌幸 たね銭が関東方に残るなり」

2015/03/04

真田 信繁(真田 幸村) sanada nobushige(sanada yukimura)  誕生~豊臣家臣時代






















真田信繁は1568(永禄11)年に武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の次男として生まれました。
母親は山手殿(寒松院)です。
幼名は源二郎または弁丸でした。

真田昌幸は武田氏滅亡後は織田氏の家臣になりましたが、すぐに本能寺の変で織田信長が討たれて、この頃には徳川家康の家臣となっていました。

徳川家康は豊臣秀吉との対立に専念するために、それまで敵対していた北条氏と和議を結ぶため、真田昌幸に沼田を北条氏に渡すように命令しました。

真田昌幸は武田氏の時代に真田幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、この命令には従わず徳川氏と絶縁しました。

徳川氏と北条氏の駆け引きで領地を取られることを避けたい真田昌幸は、豊臣秀吉と和を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。

上杉氏にとって、越後の目と鼻の先で武田方の最前線で勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは徳川氏に対する牽制の意味もありました。

8月、真田昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために真田信繁(真田幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19歳)

真田信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。

この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し上杉景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を真田信繁(幸村)に分け与えました。

真田信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は真田信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、上杉景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。

出陣は許可されませんでしたが、真田信繁(真田幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。

この頃、真田信繁(真田幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には真田信繁(真田幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。

真田昌幸は第一次上田合戦の最中、大谷吉隆を通じて秀吉の家臣となりました。

1586(天正14)年5月、上杉景勝が本拠地である春日山を出て上洛をしました。

真田昌幸は上杉景勝が留守になったこの時を狙って、真田信繁(真田幸村)や上杉氏指揮下にあった真田隊を上田に呼び戻しました。

徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した真田昌幸は真田信繁(真田幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。

これを知った上杉景勝は激怒して豊臣秀吉に真田信繁(真田幸村)を引き渡すよう強く要求しました。

この頃、真田信繁(真田幸村)は真田氏家臣である堀田作兵衛興重の妹(この時は興重の養女)と結婚し、長女である於菊を産ませています。

1590(天正18)年2月、豊臣秀吉は小田原征伐に出発しました。(信繁24歳)

この戦いに真田昌幸と真田信幸(真田信之)は、前田利家と上杉景勝の連合軍の先鋒として参戦しました。

豊臣秀吉のお付きとして真田信繁(真田幸村)は、小田原へ随行しました。

この時に、真田信繁(幸村)が豊臣秀吉のもとから実家へ戻り、真田昌幸や真田信幸(真田信之)とともに北条討伐での松井田城・箕輪城攻略に参戦したという説もあります。

北条討伐が真田信繁(真田幸村)の初陣でした。

1594(文禄3)年頃、信繁は利世(大谷吉継の娘)と結婚しました。

1594(文禄3)年11月、真田信繁(真田幸村)は兄(真田信之)と共に官職が与えられ、従五位下左衛門佐になり、豊臣姓の名乗りを許されました。

朝鮮出兵では豊臣氏の組織内部での雑務をしていました。

1598(慶長3)年8月13日、豊臣秀吉が伏見城で病死しました。(享年62歳)



2015/03/02

真田 清鏡(sanada kiyoaki)

誕生 1541年(天文10年)? 死没1599年(慶長4年)? 58歳? 

父母 父、真田幸隆 母、羽尾幸全の娘?

墓 羽黒山奥之院の荒沢寺 羽黒山麓の金剛寺

真田幸隆が領地を追われ、上野亡命中の天文10年(1541年)、真田幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児である清鏡を産ませたと言う話が残っている。

真実であれば、真田昌輝の兄、真田信綱の弟になるため、本当は真田幸隆の次男となる。真田清鏡はその後、羽黒山の修験者となり、羽黒山醍醐坊の開山となったようである。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置に際し、不満を持った南部一門の九戸政実・実親兄弟が南部宗家に対して興した九戸政実の乱に際しては、四戸家の南部利直を支援した。

その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得た。しかし慶長4年(1599年)に南部家と南部城中に宿泊時にささいな行き違いに憤って切腹。

城門に腸を叩きつけたと言う。

醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継ぎ、南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡の霊を祀ったと言われる。清鏡の墓は羽黒山奥之院の荒沢寺と羽黒山麓の金剛寺院にあると言う。

金井 高勝(kanai takakatsu)

誕生 不明 死没 1606年8月10日(慶長11年7月7日)

別名 真田信春 

法号 高勝寺殿龍顔宗白大居士

墓 龍顔寺

父、真田幸隆 母、不明

妻 不明

子 不明

金井高勝は真田幸隆の5男(4男?)で人物像、経歴は不明です。

真田信春として戦国の世を乗り越えましたが、いつからか農民になり金井高勝を名乗りました。
龍顔寺の西方に二重の堀跡が残っている居館跡があり、そこには真田宮内大神が祀られています。

金井高勝の甥である真田信之は、高勝が亡くなった翌年である1607(慶長)年6月26日付の寄進状で、金井高勝の冥福を祈って3貫文を高勝寺に寄進しています。

2015/02/28

鎌原 幸定(kanbara yukisada)

生没年不明

真田頼昌の五男

妻 不明
 
子 宮内少輔幸重

上野吾妻郡の旧族である鎌原家の養子に入った。

鎌原幸定は子、宮内少輔幸重ともに武田信玄に臣従した。

真田幸隆の吾妻郡進出にも武田信玄のもと鎌原幸定、宮内少輔幸重は協力した。そして真田幸隆と共に羽尾氏や岩櫃城の斎藤氏を滅亡させた。

幸重とその子、重澄は真田幸隆真田信綱と共に上野制圧や武田氏の勢力拡大に貢献しましたが、長篠の戦いで戦死しました。

重澄の子、鎌原重春は真田昌幸の娘を正室に迎え、天正10年(1582年)3月の武田征伐で武田勝頼が滅亡すると、宗家の真田家に従いました。

2015/02/27

常田 隆永(tokida takanaga)

誕生 不明 死没 1572年(元亀3年)7月8日 享年不明

父母 父、真田頼昌  母、海野棟綱の娘

別名 新六郎、真田幸真、七左衛門、綱富、俊綱、伊予、出羽守、隆家

兄弟 真田綱吉真田幸隆矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重

妻 不明

子 長男:俊綱、養子:隆頼(河原隆正の三男)

墓 月窓寺

真田頼昌の四男である隆永が養子として入った常田氏は、現在の上田市の中心部の一部である常田の庄を治めていた豪族でした。

兄である真田幸隆が武田氏の下で海野氏の主流派として活躍している時は、武田氏の家臣として幸隆を支えていましたが、矢沢頼綱よりも早い時期に真田氏の家臣になったものと思われます。

兄である真田幸隆矢沢頼綱と共に武田氏の家臣となり奮戦した後、吾妻郡の箱岩城の城主となりました。

岩櫃城攻略の真っ直中だった1563(永禄6)年9月に起きた長野原合戦で、上杉氏からの攻撃に対して隆永は激しい攻撃から城を守りきりましたが、この戦いで長男俊綱が戦死しました。
常田隆永本人が戦死した説もあります。

その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。

徳川氏の下で上田小県を平定した真田昌幸が常田の庄を含む現在の上田城周辺を上田に改名し上田城を築きました。

江戸時代以降に藩主邸として使われた場所は真田昌幸が上田城に在城した当時では、常田屋敷と呼ばれたという説もあります。

常田隆永は晩年、剃髪して道尭と名前を付けてました。

詳細の不明な部分が多く分かり次第更新します。

2015/02/26

矢沢 頼綱(yazawa yoritsuna)

誕生1518年(永正15年) 死没1597年6月21日(慶長2年5月7日)

別名 源之介、頼幸、綱頼、頼綱、薩摩守、剣光殿釆宗良泉居士

父、真田頼昌 母、海野棟綱の娘

兄弟 真田綱吉真田幸隆、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重

妻 正室 根井清雲の娘

子 長男、矢沢頼康、次男、矢沢頼邦 女子(海野幸貞妻)

墓 良泉寺

官位 薩摩守

真田頼昌の三男である矢沢頼綱は、諏訪神氏の一族で真田の地に隣接する矢沢の地にいた矢沢氏の養子になりました。

若い頃出家し、京都鞍馬の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗したとされる。武田信玄に仕える兄、真田幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。

天文10年(1541年)5月の海野平合戦で真田幸隆とともに海野氏に与して敗北し、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従った。ただ、この頃は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として甲斐武田家に従っていた。

真田幸隆の後を継いだ真田信綱に従い、永禄6年(1563年)9月の上野岩櫃城攻略で功を立てた。以後は真田家の吾妻郡平定で先頭に立って働き、一時期は岩櫃城代を勤めた。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで真田信綱が亡くなると、真田家を継いだ真田昌幸に従って矢沢頼綱は吾妻郡の経営や沼田領侵攻の指揮を執った。

同年、矢沢氏の菩提寺である良泉寺に10貫文を寄進した。

天正7年(1579年)頃から、武田勝頼の下で政務を執る真田昌幸に代わり、沼田城の攻略に従事した。

天正8年(1580年3月)再び沼田城を攻めますが、名胡桃城を手中に収めるも北条氏邦などの援軍により、撤退しました。

同年5月4日、 沼田城を無血開城させました。

天正9年(1581年2月11日)矢沢頼綱は武田勝頼から沼田城攻略の戦功を称えられて太刀を拝領しました。

天正9年(1581年11月)に起こった海野幸光、輝幸による謀反疑惑では、矢沢頼綱が海野氏を討伐すべきであると真田昌幸に進言したことにより、真田昌幸は海野氏がいる岩櫃城・沼田城を攻略、海野氏を討伐しました。

これにより、真田氏の組織内部の不安定要素は低減し、結束は確固たるものへとなりました。

天正11年(1583年)矢沢頼綱は真田昌幸から沼田城主を城代として任され、白根の地など200貫文を与えられました。


天正13年(1585年8月)、沼田の地を北条氏に明け渡す様に迫った徳川氏に対して全面拒否を打ち出した真田昌幸を討つため、徳川氏は上田小県の地に鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・柴田重政らを送り込み、第一次上田合戦が勃発しましたが、真田昌幸による徳川氏撃退作戦が成功を収めました。

天正13年(1585年9月)、徳川方が八重原付近で体制の立て直しをしていた一方で、真田昌幸が上田から動けない状況下で北条氏直による沼田城への直接攻撃が始まりました。

北条氏の大軍を迎え撃つために、矢沢頼綱は沼田の中心へ向かう途中にある木戸口付近に薪を集めました。

北条方が城内へ侵入しようと木戸口付近に大挙して攻めてきた時に、城内から農民達に松明を敵兵に向かって投げつけさせました。


松明の火によって甲冑が燃えたり、馬が暴れるなど北条氏は門の前で混乱に陥りました。
矢沢頼綱は城内から15000人の兵を出撃させたため、北条方は十分な攻撃ができずに撤退しました。

天正14年(1586年5月)北条方による沼田城攻撃では、矢沢頼綱が沼田を攻める北条氏邦に宛てた書状で「山中へのご出張、誠にもってご苦労の極みに候」と小馬鹿にしました。

これに対して北条氏邦は「山中珍しく覚うるにつき、鷹狩り仰せ付けられ候」、つまり鷹狩りのついでに沼田へ攻めるのだと返事をしましたが、この時の北条氏による沼田城攻略も成功しませんでした。

沼田城を北条氏が数度にわたって攻撃してきた時、上杉氏に応援を要請するなどして、矢沢頼綱は沼田城を守りきりました。


吾妻郡中之条の地に林昌寺(群馬県吾妻郡中之条町)を創建しています。

1597年6月21日(慶長2年5月7日)矢沢頼綱は享年80歳で亡くなりました。

息子の矢沢頼康は大阪の陣で真田信之の長男、真田信吉・次男、真田信政をサポートした。



2015/02/25

真田 綱吉(sanada tunayoshi)

誕生 1510年(永正7年) 死没 1571年(元亀2年)

真田頼昌の長男として生まれる。

次男に幸隆(ゆきたか)、三男に矢沢頼綱(やざわ よりつな)、四男に常田隆永(ときだ ただなが)、

五男に鎌原幸定(かんばら ゆきさだ)がいます。
主君は武田信玄

武田氏の侍大将

真田頼昌の長男でしたが、何らかの理由で海野氏を継いで、武田氏の家臣として活動していたようです。

詳細が分かり次第更新します。

真田 頼昌(sanada yorimasa)

真田頼昌については資料が残っていないため詳しい事はわかりません。

真田幸隆の父親の説が有力である。

子供は長男である綱吉(つなよし)の他に、次男に幸隆(ゆきたか)、三男に矢沢頼綱(やざわ よりつな)、四男に常田隆永(ときだ ただなが)、五男に鎌原幸定(かんばら ゆきさだ)がいます。
松尾城を拠点にして上田の一部を支配していたと言われています。

1523年(大永3年)3月15日真田頼昌は亡くなりました。

1540年(天文9年)4月16日真田頼昌の妻(海野棟綱の娘)は亡くなりました。

詳しい事がわかり次第更新します。

2015/02/24

真田 信尹(sanada nobutada)

誕生 1547年(天文16年) 死没1632年(寛永9年)5月4日 享年86歳

別名 源次郎、加津野市右衛門、信昌、隠岐守

妻 正室、馬場信春の娘

子 長男、幸政 次男、正信

墓 龍岸寺 住所 山梨県北杜市長坂町長坂上条1666

1547年(天文16年)、真田信尹が真田幸隆の四男として生まれました。母は真田幸隆の側室。

1551年(天文20年)年5月26日、父、真田幸隆が武田方の悲願だった戸石城を攻略を果たし、これにより真田幸隆は本拠地である小県の領地に復帰しました。

1553年(天文22年)8月10日武田氏への忠誠を誓うために、真田信尹は兄、真田昌幸と共に甲府の武田氏へ人質として出されました。(信尹7才、兄昌幸7才、信尹と昌幸は腹違いの兄弟)

真田信尹は武田氏の家臣である加津野氏の養子となって加津野市右衛門信昌を名乗りました。

真田信尹は槍奉行として騎馬15騎、足軽10人の戦力を与えられました。

武田信玄の下で信州先方衆として活躍し、 1569年(永禄12年)に深沢城(静岡県御殿場市深沢)の北条左衛門大夫綱成を攻めた時、綱成の指物である黄八幡旗を奪いました。

武田氏滅亡後は北条氏・池田輝正・徳川氏・蒲生氏郷の順に主を転々と変えました。

1582年(天正10年)徳川氏の家臣になり、その頃から真田姓に復帰し真田信尹を名乗り始めました。

武田氏滅亡後、信濃は徳川・北条・上杉の草刈り場と化しました。
真田信尹は真田家の当主になっていた兄、真田昌幸を依田信蕃とともに徳川方に必死に勧誘しました。

1582年(天正10年)9月下旬、兄、真田昌幸は徳川家康の家臣になり、真田信尹は徳川家康からその褒美として五十両を賜りました。

その後、使い番に抜擢され、甲斐国巨摩(こま)郡内に3000石を与えられ、 大蔵村に屋敷を構えました。

関ヶ原の戦い・大坂の役では徳川軍として参戦しましたが、大坂の陣で真田信尹は本多正純を通じて徳川家康から豊臣方に属した甥の真田信繁(幸村)を勧誘する役割を与えられました。

度重なる勧誘工作の後、最後には信濃一国を与えると言って真田信繁(幸村)を勧誘しましたが、真田信繁(幸村)はそれを突っぱねました。

大坂の役での働きを評価され、旗奉行に格上げ、1000石を加増され、4000石になりました。

子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた。子孫は4つの系統に分かれ、その内の2家が明治維新まで存続した。

2015/02/23

真田 信正(sanada nobumasa)

誕生 1571年(元亀2年) 死没 1632年(寛永9年)

改名 幸明

主君 徳川家康、松平忠輝、松平忠昌

父母 父、真田昌輝 母、相木昌朝の娘

生涯

真田幸隆次男、真田昌輝の嫡子で、真田信綱真田昌幸の甥にあたる。

真田信正は父、真田昌輝が長篠の戦いで戦死した時は2歳であった。

その後、真田昌幸のもとで養育されました。

1611年(慶長16年)には越後の高田城城主である松平忠輝に700石で仕えました。

しかし、1616年(元和2年)に松平忠輝は改易され、1618年(元和4年)から高田城に移封された松平忠昌に仕えました。

松平忠昌が越前国北ノ庄藩(のちの福井藩)へ移封され時には一緒に福井へ移りました。

本多忠国にも仕えたという説もあります。

真田昌輝の家系は越前真田氏として現代にまで続いています。

真田 昌輝(sanada masateru)

誕生 天文11年(1543年)6月 死没 天正3年5月21日(1575年6月29日)

別名 徳次郎 信輝

戒名 嶺梅院殿風山良薫大禅定門

墓 信綱寺 住所 長野県上田市真田町長8100

供養碑 愛知県新城市の設楽ヶ原古戦場

兄弟 信綱、昌輝、昌幸信尹、金井高勝、清鏡

妻 正室:相木昌朝の娘


甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将。父は真田幸隆で次男。同母兄に信綱、同母弟に昌幸信尹らがいる。幼名を徳次郎。兵部丞、兵部少輔。

武田二十四将にも数えられる。長篠合戦で奮戦するも戦死した。


天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれた。

小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。

信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。

現在の本で、弟の真田昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」と称せられたのは、兄である真田昌輝の方である。



武田信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄、真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった。

なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明。兄、真田信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣、戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、最右翼の馬場美濃守、そのすぐ左翼の兄、真田信綱のさらに左横に陣取り、右翼部隊の一端を担う。

5月21日の設楽原決戦においては、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。

ここでは、首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく真田信綱とともに討死した。

享年33、法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽ヶ原に墓が現存する。

子、真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた。
今も越前真田家として存続している。


真田 信綱 (sanada nobutsuna)

誕生1537年(天文6年)死没1575年6月29日(天正3年5月21日)

戒名 信綱寺殿天室道也大禅定門 信綱寺殿大室道也大居士
 
墓所 長野県上田市真田町信綱寺 設楽ヶ原

父母 父、真田幸隆 母、河原隆正の妹・恭雲院 

兄弟 信綱、昌輝昌幸、信尹、金井高勝

正室:高梨政頼の娘・(於北様)(井上次郎座衛門の娘とも)

子 信興、信光、娘(真田信幸正室のちに側室)

武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。

幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

生涯

天文6年(1537年)生まれである事は『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた。

永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、真田幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である真田信綱が事実上支配していたと思われる。

戦場では専ら父・幸隆弟、真田昌輝らと共に行動しており、真田幸隆と共に信濃国や上野国を転戦した。

永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。

元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

天正2年(1574年)5月に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継いだ。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟、真田昌輝と共に戦死した。享年39。




2015/02/22

真田 幸隆(sanada yukitaka)






















誕生 1513年(永正10年)
死没 1574年6月8日(天正2年5月19日)

改名 次郎三郎(幼名)、幸綱、幸隆、一徳斎(号)

父母 父、真田頼昌、母、海野棟綱の娘

兄弟 綱吉、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重

妻 正室:河原隆正の妹・恭雲院 側室:羽尾幸全の娘

子 真田信綱、昌輝昌幸信尹金井高勝、清鏡

生涯

信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされている。
幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は1541年(天文10年)に同盟関係にある諏訪頼重や村上義清と共に小県へ侵攻する。

同年5月の海野平合戦により海野一族は駆逐されており、幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。

真田幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。武田方の初見史料となる『甲陽軍鑑』に拠れば1548年天文17年(天文17年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しており、『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたという。

一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の伝説的軍師として知られる山本勘助の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は3~400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸隆を推挙したと推測して天文12年説を提唱し、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を1546年(天文15年)4月に河越夜戦で上杉勢を上野から駆逐していることから、幸隆の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが真田幸隆であったと推測している。

武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸隆の要請にもよるものと言われている(柴辻による)。

戸石城攻めで真田幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。しかし1551年天文20年(天文20年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば真田幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

1553年天文22年(天文22年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復する。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。真田幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。

この頃、関東へ進出した後北条氏は上野で上杉憲政を庇護した越後の長尾氏と対峙するが、幸隆は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている(柴辻による)。

1556年弘治2年(弘治2年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。『軍鑑』に拠れば、1559年(永禄2年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、越後上杉氏との第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。

川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸隆が調停に関わっている。

永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。

近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである。

永禄10年(1567年)、病気のために家督を真田信綱に譲って隠居していたとされている。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。

2015/02/20

豊臣秀吉正室北政所ねね (nene)







誕生

尾張国の杉原定利・朝日殿の次女として生まれる。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝・七曲殿の養女となり浅野家(後の広島藩浅野家)の娘となる。

豊臣秀吉との結婚

1561年(永禄4年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。

ふたりの間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。加藤清正と福島正則、黒田長政、小早川秀秋などが居た。

長浜城に転居

天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。
この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。

幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り、秀吉と再会する。

大阪城に転居

その後、豊臣秀吉と共に大坂城に移り、1585年(天正13年)、豊臣秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。

天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。

1588年5月9日(天正16年4月14日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。

1593年(文禄2年)から始まった文禄・慶長の役への日本の補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。

豊臣秀吉没後

1598年9月18日(慶長3年8月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。

1599年(慶長4年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移徙した。

関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。

このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により勧修寺晴子准后の屋敷に駆け込むという事件もあった。

合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した。

豊臣秀吉から河内国内に与えられていた大名並みの1万5,672石余の広大な領地は、合戦後の慶長9年に養老料として徳川家康から安堵されている。この時石高は1万6,346石余に微増。

高台寺へ

1603年(慶長8年)、養母の死と、秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。

1605年(慶長10年)、実母と豊臣秀吉の冥福を祈るために徳川家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立し、その門前にも屋敷を構えた。

大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、木下利房が護衛兼監視役として付けられた。

そして、身動きを封じられたまま1615年(元和元年)、大坂の役により夫秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績で備中国足守2万5千石藩主に取り立てられた)。

だが徳川家との関係は極めて良好で、秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。

またなお公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物が皇居に届けられたことが、「御湯殿のうえ日記」から知れる。

高台院屋敷にて死去

1624年10月17日(寛永元年9月6日)、高台院屋敷にて死去。

享年については76、77、83などの諸説がある。

なお最晩年に木下家から甥利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えたため、遺領約1万7,000石のうち3千石分は利次によって近江国内において相続された。

羽柴利次となった利次であったが、養母北政所の没後、羽柴を称することを江戸幕府から禁じられ木下に改称する。

子孫は江戸時代も旗本として続いた。

実家である杉原家は、秀吉により「木下」に改姓させられたが、甥(家定の子)らが興した足守藩・日出藩の両木下家は、江戸時代を通じて小大名として存続した。

親戚の杉原家も小領主ながら幕末まで残った。足守木下家からは歌人木下利玄が出ている。

婚家である豊臣姓大坂羽柴家の直系は断絶したものの、養家である浅野家には傍流で女系ではあるが、豊臣姓羽柴家の傍系の血が入り、大大名広島藩浅野家として江戸時代も繁栄した。

なお、この傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。

北政所

百姓あがりの豊臣秀吉が天下を取り、摂関家出身者以外ではじめて関白になるという歴史的な出来事が起こる。その正室・ねね(のちの高台院)には、秀吉の関白補任に伴い従三位が授けられているが、彼女はこの直後から北政所と呼ばれるようになっていることから、叙位と同時に「北政所」の称号を贈る宣旨も出たものと考えられる。


北政所はただ「糟糠の妻」として大きな発言力をもっていたのではなく、卓越した管理能力と繊細な外交手腕、そして調停などには不可欠な大局を見定める眼という、きわめて高度な政治力を身につけた当時としては傑出した女性で、その存在は単なる「天下人の妻」を大きく越えたものだった。本来は「その任を子弟に譲った前関白」を意味する普通名詞だった「太閤」が秀吉以後は専ら秀吉のことを指す固有名詞のようになったのと同じように、それまでは「摂政関白の正室」の称号だった「北政所」も、このねね以後は専ら彼女のことを指す固有名詞として定着し今日に至っている。


なお正室に贈られる「北政所」に対して、摂政関白の生母に贈られる称号を「大北政所」、略して「大政所」(おお まんどころ)といった。これも豊臣秀吉の生母・なかに贈られてからは、専ら彼女を指す語になっている。



「北政所黒印状(孝蔵主奉書)」: 摂津三田藩藩主有馬則頼に北政所が融資していた黄金五枚が無事返済されたことを記した証書。「有馬中務少輔則頼」宛て。筆者・差出人は豊臣家筆頭奥女中の孝蔵主。北政所所用の黒印を据え仮名消息の体裁をとっている。紙本墨書。
(名古屋市博物館収蔵)

2015/02/19

京都高台寺火災

17日深夜に敷地内の倉庫が全焼する火事があった京都市東山区の高台寺は18日、翌19日午前から拝観を再開することを決めた。18日は、京都府警と京都市消防局による実況見分があり、拝観を中止していた。
(毎日新聞より)

17日午後10時20分ごろ、京都市東山区下河原町の高台寺の境内で火の手が上がっていると近隣住民から119番があった。方丈の西側の木造平屋建ての物置小屋延べ約100平方メートルが全焼し、東隣のポンプ小屋の壁を焼いた。けが人はなかった。
 市消防局と同寺によると、物置小屋は普段、庭師が使っており、この日は庭師と寺の職員が物置小屋の近くでドラム缶を使ってたき火をした後、午後5時半ごろに消したと話しているという。この火災による文化財の被害はなかった。
 高台寺の後藤典生執事長(66)は「境内での火災は1930年以来のこと。長年かけて防火体制を構築してきたので、ショックを受けている。物置小屋は唯一、暖房用で火を使う場所だった」と話した。
 近くに住む会社員男性(56)は「自宅2階でテレビを見ているとバチバチという音がして、窓を開けると火の粉が見えた。近づくと竹林の辺りに炎が幅10メートル、高さ10メートルほどの規模で上がっていて驚いた」と話した。
 高台寺は1606年、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)が秀吉の供養のため創建した。ねねの墓所となっている霊屋をはじめ、開山堂や傘亭、時雨亭、表門、観月台などが国の重要文化財に指定されている。周辺には高台寺塔頭の圓徳院や石塀小路、清水寺へと続く二年坂などの名所があり、観光客に人気がある。
(京都新聞より)

2015/02/15

真田 信之(sanada nobuyuki)


 
真田 信之(さなだ のぶゆき)

別名 一当斎(号)
改名 幼名 源三郎→真田信幸→真田信之

法号 大鋒院殿徹巌一当大居士

父母 父、真田昌幸、母、山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘)
 
兄弟 信繁、昌親、信勝、村松殿(小山田茂誠室)、真田幸政室、鎌原重春室
保科正光室 於菊(宇多頼次室のち滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽

正室 小松姫(本多忠勝の娘)
側室 右京の局(玉川秀政の娘)、真田信綱の娘

子   信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端


墓   長国寺 住所 長野県長野市松代町松代田町1015-1
    長野県長野市松代町の大鋒寺
         和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院

1566年(永禄9年)武藤喜兵衛(真田昌幸)の長男として生まれる。
1658年(万治元年)10月17日93歳で逝去しました。

真田信之の軍旗は黒地に金色の六文銭だったとされている。

「信濃の獅子」と評されていた。

関が原合戦後の上田城は、本丸・二の丸といった中心部は破却されましたが、現在の上田高等学校の地に藩主屋敷を設けたり、城下町の拡張整備に努めました。

上田の城下町は、信之の時代にその大部分ができました。

真田信之は、農村についても、農民が逃亡することのないように年貢の減免措置を行い、耕作放棄地を減らす政策をとりました。

また、用水堰の開削やため池の築造をし灌漑施設の整備を進めるなどの事業も行いました。

武田家臣時代

1566年(永禄9年)武藤喜兵衛(真田昌幸)の長男として生まれる。
武藤喜兵衛(真田昌幸)が甲斐の武田家に臣従したため武田家の人質として過ごした。
1579年(天正7年)に武田勝頼の嫡男・信勝の元服と同時に元服を許され、武田信玄の1字を賜って真田信幸(真田信之)と名乗ったとされる。

1582年(天正10年)3月織田信長、徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領への侵攻が行われ武田家が滅亡すると人質だった母の山手殿と共に上田の父、真田昌幸の元へと逃れた。

武田滅亡後

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長が自害する。

織田信長の死を知った北条氏直は織田家臣・滝川一益を神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川一益を支援し、途中まで見送ったという。
同じ頃、上杉景勝が信濃へ進出していたが、真田信幸(真田信之)は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城を撹乱した。
だが、やがて徳川家康の家臣・依田信蕃、叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還、真田家は北条氏に敵対する。
真田信幸(真田信之)は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げた。
依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。

1584年(天正12年)真田家は小県郡を支配する室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に真田信幸(真田信之)は父、真田昌幸と共謀して当主・室賀義澄を殺害し、真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した真田信幸(真田信之)は吾妻仙人ヶ窟にてこれを撃退している。

徳川家臣時代

父、真田昌幸が家康に一時は臣従して上杉軍と交戦するも、天正13年(1585年)、真田昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、上杉氏に臣従すると真田信幸(真田信之)は父、真田昌幸と共に徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。
真田信幸(真田信之)は支城の戸石城に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。

その後、真田昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には徳川家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。
真田信幸(真田信之)の才能を高く評価した徳川家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に真田信幸(真田信之)を出仕させて娶らせた。

1590年(天正18年)の小田原征伐では上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。

1594年(文禄3年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される(同日、弟、真田信繁(真田幸村)は従五位下左衛門佐に叙任)。
その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。
文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。

父、真田昌幸(妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の真田信繁(真田幸村)(妻が大谷吉継の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、徳川家康の養女を妻とする真田信幸(真田信之)は徳川家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。
戦いの前に義弟の本多忠政と共に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。

真田信幸(真田信之)は弟、真田信繁(真田幸村)が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、真田信繁(真田幸村)も兄、真田信幸(真田信之)の意を汲み開城に応じた。

真田信幸(真田信之)は入城後守備し、真田信繁(真田幸村)は真田昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は徳川家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加することができなかった。

幕藩体制下

戦後、真田昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた。(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った仙石氏が行う)引き続き沼田城を本拠とした。

真田信幸(信之)は真田昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父、真田昌幸との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。

義父の本多忠勝の働きかけもあり、真田昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。


1614年(慶長19年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣している。

1622年(元和8年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。

1656年(明暦元年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。

1658年(万治元年)2月に信政も死去した。
この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主、信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。

最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために真田信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。

同年10月17日に死去。享年93。

2015/02/10

真田 昌幸(sanada masayuki)






真田 昌幸(さなだ まさゆき)上田城城主

別名 幼少 源吾 源五郎
    改名 武藤喜兵衛 → 真田昌幸

叙任 安房守

法号  長谷寺殿一翁千雪大居士

妻 正室:山之手殿(寒松院)

子供 長男:信之(信之)、次男:信繁(通称は幸村)、三男:昌親、四男:信勝

長女:村松殿(小山田茂誠の妻)、次女:名前不詳、三女:名前不詳、

四女:名前不詳、五女:名前不詳、六女:清光院、七女:楽


墓 善名称院(真田庵)住所 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
     長谷寺                 住所 長野県上田市真田町真田 

供養碑 長国寺           住所 長野県長野市松代町松代田町1015-1


1547年 真田幸隆(幸綱)の3男として生まれる~1611年6月4日 九度山真田庵で病死した。享年65(67とも)
謀略・武勇ともに長け、籠城戦を得意とした。築城にも才を持っていた。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られる。
真田昌幸を表現した言葉で「小信玄」「信玄の懐刀」

豊臣秀吉から「表裏比興の者(くわせもの)」がある。

誕生   

1547年信濃の豪族真田幸隆(幸綱)の三男として生まれる。
誕生日は不明で幼名は源五郎である。
当時、幸隆 長男真田信綱 次男真田昌輝が居たため家督相続の権利はなかった。

武田信玄の時代

1553年(天文22)8月10日源五郎(真田昌幸7歳)は弟、信尹(信昌)とともに甲斐武田家への人質として甲斐国に下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
武田晴信(武田信玄)は父、真田幸隆長男、信綱にも劣らぬ才能を早くから見抜いて寵愛したと伝えられている。
武田二十四将にも数えられた事もある。父、兄弟3人が武田二十四将に数えられる家は真田家だけであった。
この時の奥近習衆は源五郎(真田昌幸)の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられている。

源五郎(真田昌幸)は信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛と称し足軽大将に任しられその軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている。

初陣は武藤喜兵衛(真田昌幸)15歳1561年(永禄4年)9月の第四次川中島の戦いと伝えられて足軽大将として
武田家奉行人にも加わったと伝えられている。

1569年(永禄12年)10月6日、武藤喜兵衛(真田昌幸)は、北条氏康、氏政、氏照との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。この北条家との戦いで一番槍の高名を挙げたと伝えられている。

1572年(元亀3年)10月武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄の西上作戦に参陣して12月の三方ヶ原の戦いに騎馬15騎、足軽30人を率いて出陣している。この戦いにて浜松城に敗走した徳川家康らを追撃すべきと言う意見に反対したとされている。

武田勝頼の時代

1573年(元亀4年)4月 武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。

1574年(天正2年)父・真田幸隆(幸綱)が死去する。

真田家の家督は長男・真田信綱が継いでいた。

1575年(1575年)5月21日織田信長、徳川家康連合軍との長篠の戦いで長男真田信綱次男真田昌輝が討死した。
武藤喜兵衛(真田昌幸)は長篠の戦いは武田勝頼本隊旗本衆として出陣していたため討死は免れていた。

長男真田信綱、次男真田昌輝が討死したため武藤喜兵衛が本来の真田姓を名乗り、真田昌幸が真田家の家督を相続した。
武藤領は返納し相続した領土は真田領のみであった。

家督相続後、真田昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは武田勝頼への甲府出仕も多かったとされていて真田領と甲斐を往復する事を繰り返していたようである。

1578年(天正6年)3月13日、上杉謙信が病死して御館の乱を経て甲越同盟が成立する。

1579年(天正7年)9月、真田昌幸は武田勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領へ侵攻した。
真田昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父、矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
その時、名胡桃城の城主鈴木重利と小川城の城主小川可遊斎を投降させて名胡桃城、小川城を手に入れた。
名胡桃城、小川城を拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が沼田城の援軍に駆け付けたために撤退した。

1580年(天正8年)3月、沼田城の攻撃を再開する。
猿ヶ京城も攻め落とし金子泰清、藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。
この年に安房守に叙任する。


1581年(天正9年)武田勝頼の命令により新府城の作事奉行を務めた。
元沼田城の城主沼田景義が旧領土奪回を図ったが真田昌幸は家臣の金子泰清に命じて沼田景義を討ち取った。

1582年(天正10年)3月織田信長、徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領への侵攻が行われた。
真田昌幸は武田勝頼に武田領の甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが武田勝頼は岩殿城を目指して落ち、その途中で岩殿城の城主小山田信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。

武田家滅亡後、真田昌幸は織田信長の家臣となり真田領はそのまま真田昌幸の領土となる。
織田家の重臣、滝川一益の与力武将になる。
沼田城城主には滝川益重がなる。

天正壬午の乱

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長が自害する。
真田昌幸は織田家に従属してから僅か3ヶ月後の事であった。

本能寺の変により織田信長から旧武田領の統治を任されていた森長可、毛利秀頼、道家正栄、織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、旧武田領の甲斐国主の河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが争奪戦を繰り広げた。

真田昌幸はこの好機を見逃さず信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。
織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった
しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。

真田昌幸はこの会合には参加していないが、会合の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が真田昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。

そして彼らの代表者が岩櫃城にいた真田昌幸の下を訪れ、真田昌幸は総大将を快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。

この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。

6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1000貫文を与えた。

6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。


6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、神流川の戦いにて滝川一益を破った。
この時、真田昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた


6月21日、真田昌幸は滝川一益がいなくなり上野も無主になるとに叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。
また、嫡男の真田信之を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。

6月24日上杉景勝が進軍して長沼城に入った。
真田昌幸は上杉景勝に臣従した。

7月9日真田昌幸は北条氏直に降った。

7月12日北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。
この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。

8月9日上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。
9月25日真田昌幸は佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る。

10月29日若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は和睦の途を選択する。
しかし、北条氏との同盟を選択した徳川家康は北条氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。
真田昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条連合と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。

これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴への参加に他ならない。

この時、厩橋城の北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。

徳川家康との対立

1583年(天正11年)真田昌幸は松尾城(後に上田城)と城下町を築いた。
北条氏と通じていた禰津昌綱、屋代勝永、室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。
これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっている。
真田昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。

1584年(天正12年)3月小牧・長久手の戦いで徳川家康は主力を率いて尾張に向かい、真田昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。

真田昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を攻めさせ、沼田城周辺で後北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、小県郡を完全掌握するために室賀氏を謀殺して滅ぼした。
こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。

12月に徳川家康は羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。

天正13年(1585年)4月徳川家康は北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため甲府に軍を進めて真田昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。
しかし真田昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否。
徳川家康はやむなく浜松城に引き返した。

7月15日真田昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えてに次男の真田信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に従属する。

8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を真田昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
真田昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。

豊臣政権時代

1585年(天正13年)冬、次男の真田信繁(真田幸村)が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、真田昌幸は豊臣家に臣従する。

1586年(天正14年)真田昌幸は佐久に侵攻する。
5月25日、北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退した。
7月、徳川家康が真田昌幸征伐のために甲府に出陣する。
8月7日、豊臣秀吉の調停を受けて真田昌幸攻めを中止。
11月4日、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となった。

1587年(天正15年)3月18日真田昌幸は駿府で徳川家康と会見し、その後大坂で豊臣秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。

1589年(天正17年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され真田昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。

この頃、真田昌幸は在京していたが11月には後北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされ小田原征伐の原因となる。

1590年(天正18年)小田原征伐に際しては次男の真田信繁(真田幸村)と共に参戦し石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城に在陣している。

関ヶ原合戦

1600年(慶長5年)7月、徳川家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた真田昌幸もこれに従っていた。

徳川家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に徳川家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。

真田昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇多氏を通じて石田三成と姻戚にあった関係から次男・真田信繁(真田幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。

9月6日(10月12日)東軍、徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中山道を下り、には上田城攻略を開始する。
真田昌幸は2000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた(第二次上田合戦)。
中山道制圧の任にあった徳川秀忠軍は徳川家康から上洛を命じられ、上田城攻略を諦める。
この時、上洛を命じる徳川家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ徳川秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いに遅参することになる。

真田昌幸は関ヶ原の戦いでの石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って真田信繁(真田幸村)を出撃させて夜討ちと朝駆けの攻撃を加えた。
西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。

配流

関ヶ原の戦後処理における処分では、徳川家康より真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子には上田領没収と死罪が下される。

真田昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の真田信幸(後の真田信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた。

信濃上田の真田領に関しては真田信幸(後の真田信之)に与えられ、沼田2万7000石、上田3万8000石、加増3万石の合わせて9万5000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。

1600年(慶長5年)12月13日真田昌幸はに上田城を発して高野山に向かった。

真田昌幸の正室は上田に残留し、次男の真田信繁(真田幸村)とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った。


真田昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、徳川家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。

高野山での真田昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし真田信繁(真田幸村)が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われている。

なお、流人ではあるが真田昌幸・真田信繁(真田幸村)の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。

真田昌幸の生活費に関しては国許の真田信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。ただ、これは逆に真田信之との仲が疎遠になったわけではなく、親密に続けられていた事が伺える。

最期

10年余り続いた流人生活は真田昌幸の気力を萎えさせた。
晩年の3月25日付(年次不明)の真田信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とある。

また配流当初には真田信之を通して赦免運動を展開し、1603年(慶長18年)3月15日付で国許の信綱寺へ宛てた書状があり、その内容から赦免されて国許に帰還する希望を持っていたようである。

また国許の家臣との関係も親密で、家臣が真田昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もある。

最晩年の真田昌幸は病がちだった。

信之宛の書状では真田信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。

また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた真田昌幸を苦しめたようである。

1611年(慶長16年)6月4日、九度山真田庵で病死した。享年65(67とも)